ゴのセン、センのセン

武術で云うところの「後の先」「先の先」というのは、スピードや小賢しいテクニックや浅はかな心理戦の話ではないでしょう。

単独の行も然りです。身体行でも瞑想行でも同じ。心、身 よりも先に動く、気づく、ということを培うのです。そこにいるということを。

整体術ならば、表れている症状そればかりを追いかけて症状に対してだけ何かをするのは「後の後」です。

たぶん、見事すぎる「先の先」は、武術なら、「やられた」感が無いんじゃないの。整体なら「やってもらった」感。 単独行なら、「やってる」感は無いことでしょう。

さらに見事すぎるならば、相対的な行事でも無くなってくるでしょう。合気の達人が多数にかける技、聖者が一編に大勢を癒す業。単独行なら、一挙手一投足が呼吸が行為全てが先の先。もう何をやっているのかやっていないのかもわからないわけられないさ。


スピリチュアル界の「引き寄せの法則」というのも、本質的に、人生の「後の先」「先の先」のことを言っているのかもしれませんが。見事な「引き寄せ」は預金通帳の数字が沢山になり、見事過ぎれば、数字ゼロでも何でも何がどうあれ大笑いできる、ということになるのかね(小笑) 。




ミ カエル

(…この人のこの動きの何が凄いっていうの?) と思った20代。

(あの人、何であの動きが出来たの?スゴ)と思った30代

(…あの人、何もしてねえじゃん!スゴ!)と思う40代。

フィルムに映る肥田春充さんは不変、コロコロ変わった私のココロ。


世界のシステムや都会の様相には変化はあるものの、イキをする私達はずっと変わっておりません。

故郷に帰ったとき、目に映るのは心象風景です。 人は死ぬ時、走馬灯のように、生きてきたストーリーを見るといいますが、魂の故郷に還るときに、心象風景を総括して見るということなのでしょうか。魂の故郷へは、必ずしも死なないと還れないわけではないと思うのですが。


で、整体での話。人の不調具合に、理由はあるでしょう。因果なんて無いとは言いません。でも、因果に因果で対処しても、因果は無くなるわけではありません。 癒しのチカラというのは、全く因果は絡んでおりません。不調の具合がどんなものであれ、本来のモノのチカラは、ただ、発現するだけなのであります。





マナビ

日本言葉は、和製漢語や和製英語や方言も含め、語彙というのか、ボキャブラリーというのかかが沢山あるのでしょうが、
自分のブログを読み返すと、同じ言葉を真逆の意味合いで書いてることがあります。

言葉を使えていないのか自身の矛盾の露呈なのか両方なのかはさておき、「文、手書き文、通話、対面会話」では、やりとりの具合は違いますよね。

一番濃密で確実なのは対面会話ですが、だからといって目の前の人とコミュニケーションがとれていないと感じる場合もあります。意見の違いというのではなく、初対面だからというのでもなく。
それは、目の前の人が、目の前で今まさに、目の前の人を、観ていないときです。己の過去からの記憶や知見でしかモノを見てないし言っていないときです。パソコン脳です。

目の前の人を今、観て、会話が出来ているなら、ボキャブラリーは逆に不要になってきます。赤ちゃんや田舎の老人、互いの国の言葉を知らない人同士と、コミュニケーションをとりたいとき、巧みに言葉を操るという方法はとりませんでしょう。
人が人を、今この瞬間を 観るとき、習い事、修行等々をするとき、過去からの自分がどんなに優秀だろうがクズだろうが、関係ないのです。




ミを覚ます

まずは肥田式強健術の話から。

肥田春充は、フイに行った腰を反ったままの第四動での、聖中心悟得の体験を描写していますね。ドラマティックにね。
それを読んだ後世の我々は、勘違いをします。あの姿勢を外側から真似て、決めの動作の瞬間に、自分もドラマを起こそうとするのです。あるいはドラマが起きるのを期待するのです!この作業を辛辣に言いますとすれば、酔っ払い、お遊戯、泥棒です(笑) 本道が歩み出されるのはそんな御遊戯を解体してからです。必ずしも誰もが相当するプロセスではないだろうが、ということは申し添えておきます。

こうしたメソッドや武道は結果に現れますから、出来るか出来ないかは自覚できます。ですからいつまでも酔っ払っていても何もならないことは、痛感するはずです。武道は、勝ち負けという相対的な結果や段位という暫定で下される評価に捕らわれるかもしれませんが、誠実であるならば、そこにアグラはかかないはずです。


スピリットとマインドの区別がつかないままスピリチャリズムに没頭すると、酩酊状態になります。より強い「マインドの酒」を飲み、覚醒したような気分の深い夢を見たりするかもしれません。
しかしこれもまた、誠実であるならば。


肚は白く、額は空に、胸は透明に。 マコトに。




おかげサマディ おもい脱す

デジタル時計や秒針がカチッカチッと動くアナログ時計は、何時何分何秒かを明確に表現します。秒針が滑らかに動くアナログ時計は、通り過ぎ続ける時間を表現します。

針の中心は。


時間が紡ぐ人生ドラマは面白いので、夢中になります。ドラマの主人公になりきって、喜怒哀楽一喜一憂してカタルシスを味わいます。主人公だけでは飽きたらず、脚本監督プロデュースもしたりします。自分は世界のドラマのエキストラだとみなす人もいますでしょうが、セルフマインドというドラマの中では完全に主役です。



マインドと自己を混同しない「時」があったとすれば、幼児の頃でしょう。しかしそれは、マインドや身体が未発達だったということです。マインドは育ちます、ドラマは始まります。
そしてマインドラマに夢中になります。


ですが、中心は? 。



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