脳科学系の本を何冊か読んだ時に、腑に落ちなかったことがあります。

原始人は、「闘争か逃走か」のアドレナリン分泌で狩りをした、つまり生きる上でアドレナリン分泌は必須だった的な解説ですが、こんなの仮説でしかないでしょうよ。

仮にそうだったとします。しかし、現代の脳科学やスポーツ科学で、アドレナリン分泌では高いパフォーマンスやハピネスは得られないことが解っているように、原始人だってソレでは上手く良くやれなかった筈です。

そこで稲作に移行することで脳はセロトニン分泌になったのかもしれないが、セロトニン分泌で狩りを行う人達もいた筈です。合気の達人や純アボリジニは興奮した態度で闘争や逃走などしていませんでしょう。

方法を変えるのか。自分を変えるのか。この決定的に違う選択により、将来は、荒廃した地球で生ききる人と火星へ移住する人とに別れるんです。でね、更に更に更に遠い未来に、地球に帰還した天津神という人類と、ずっと地球で生きてきた国津神という人類が、共存もしくは戦争をおっぱじめるのです。神話は古代という名の未来の、予言のようなものです。

現実ぽい例え話に戻しましょうね。カーナビが進化するほど、人は自力で道を記憶する能力を失います。より良い世界やメソッドが欲しいのか、より良い自己であろうとするのか。どちらも矛盾せず反比例しないような在り方、つまり二元、陰陽を超えた太極は元々にあるのですが、私達は、「ソレかコレかゲーム」をやり続けます。


闘争か逃走かでは立ち行かない社会が世界中で現象化しているようですが。

次回記事予告「私達は光でできている」