アン

毎年京都のお坊さんが書く「今年の漢字」ってやつ、今年は「安」(安保法制の安、テロ等の不安の安)だそうですが、安て1字だけなら「安らぎ」的な意味合いだと思うんだけどな…

現代人はメッチャ安心を求めてメッチャ不安に生きています。安心て何処にあるの。安心すると楽しいの?不安が辛いのか。辛いよのう不安は。 不安だから何かをする。 不安だから何も出来ない。…不安ていつから不安になったの?大人になってから?子供の頃?前世?前世なんてあるか無いか知らんけど、それって終わったことだし。子供の頃も終わってるし。大人になって不安なら大人やめればよくね?…今日ポジティブだな俺(笑)。やめちゃえよ、全部。 …ポジティブだな…よし、ポジティブもやめちゃえ!

毎年春と秋になると、九十九里浜には、よく仔猫達が捨てられていました。まだ目も見えずお腹も空いているのだろう、精一杯ミャーミャー鳴いていました。不安だ不安だと鳴いていたのか。ただただ鳴くほかなく、鳴いていたのか。次の日にはその声も聴こえなくなります。誰かが拾っていってくれたならともかく、大抵は、動かない小さな体が横たわっているのです。あの時期は浜を散歩するのが辛かったです。辛いだけで何も出来ない何もしない自分が死んでしまえばいいのにとか思って何も出来ない毎日を送っていました。

我思わず。故に我無し?

寝ている時に訪れる、「研ぎ澄まされたリラックス」の記述。

この時は睡眠状態ではないので、浅い眠りでいい夢を見ている訳ではありません。寝入りばなや寝起き前の「まどろみ」の気持ち良さとも違っていて、意識は超ハッキリしています。それは通常の活動時より濁りのないものです。寝ている時に訪れ易いのは外からの刺激に反応しなくて済む環境、時間、空間でいられているからだと思います。
外からの雑音だけじゃなく自己からの雑音にも惑わされません。昨日の記事にも少し書きましたが、「自分は何をすべきか」 などと考えることがないのです。すべき事なんて何もありゃしない。

通常、人は意識的にも無意識的にも、崇高なものであれ俗なものであれ、「何かをする」ことに駆られて何かをしています。何かをする(または思う)ことで何かを感じ、そしてまた「そこ」から何かをし…と続きます。最初に何かをした(思った)ところからどんどんはぐれていきます。「何か」に対して「何か」をし続けます。その行為が楽しければ問題ないのかも知れませんが…。
それが楽しくない人、それが人間の当たり前の営みだとは思えない人だけ、ここから先お読み下さい。

考えちゃいけない、何もしちゃいけないって訳じゃありません。考えや行為が生まれる処からはぐれて、考え(行為)から考え(行為)を生むから、問題が終わらなくなるのです。金が欲しくて幸せが欲しくて悟りが欲しくて行為し続けるのです。私の事です(笑)。

カルマとかいうのは「負債」じゃねえだろ。功徳を積んで返済していく算盤勘定な訳ねえじゃんか。 考え(行為)から考え(行為)をする事で付随してくるただのノイズじゃろが。

我思う。故に我が在るとは思わんが。

良く作られた履き心地の良い靴を履いていて、よく思うことがある。
どこまで良く出来た靴でも土の上を裸足で歩く気持ち良さは味わえない、と。

白いキャンバスに黒く、自分の描きたい絵を描くとします。描きたいモノは黒く描いた、背景は無し、ハイ出来上がり、満足満足。という単純な描き様もあれば、トリックアートのように、白い部分と黒い部分では違うものが描いてあるように見える絵を描きたい人もいるでしょう。あるいは水墨画のように、背景(空間)を表すためにモノを描く人もいるでしょう。


「自分はもっとしなければならない、でなければならない」という行為の果てに、結局何処にもたどり着けない事があります。

「自分はまだまだ未熟者だから」と言って、何も始められない人がいます。


未熟と成熟の線引きなんて一体どこにあるというのでしょう。
どんな絵を描かなければいけないかという発想でイイ絵は描けるものでしょうか。

「正しい(とされている)」ことと、「本当」のことは必ずしも同じではないのです。

未熟上等。したいことだけが本当のこと。文句あるか。ないっす。

あっぱれ中心練修会

ブログ「あっぱれ正中心」では度々、当方を記事にして頂いているので、今回はその御礼というか返信がてら、中心練修会の話を綴ります。

私が通っていたのは90年代の阿佐ヶ谷教室でした。ドンファンさん経由でその存在を知りました。当時、太極拳を習っていましたが肥田式なるものは知りませんでした。初めて教室に入る時出てきたのは今の三宅先生の奥様でした。ケガレのない方、という第一印象でした。で先生は、実際に行く前に想像してたのは「ヒゲの長いジイサン」だったので、あら?若い人だなと思いました(笑)。

太極拳を習っていたとはいえただ型だけしか出来てなかった私は、当然肥田式に触れても何が何だかよくわかりませんでした。でも何故通うようになったのか。

予感のようなものでしたかね。この人に学びたい、と思ったのです。 太極拳と肥田式との優劣や向き不向きという問題ではありませんでした。学びたい事を教えてくれる先生だと思ったのです。
当時私は若気の至りで、「クソったれ」とかの絵とか●●●とかとにかく全面落書きだらけにした道着を履いてましたが(笑)それで何の お咎め もしない先生というのは、世界中探しても他には居なかったことでしょう(笑)。

ボディーワークや武道の予備知識や経験などは、特になくてもあっても、そういうものよりもっと「初め」にあるものを習えると思いますよ。

通いはじめて間もない頃、この体操って何か、「どこか懐かしい処に還っていく運動」 というような感じがする、って感じがしてました。今現在は、超難しい動きにしか思えませんけど(笑)。


ポエムポエム

今回の綴りも、どうでもいいポエム的独り言になります(笑)。あいすみません、あしからず。

地に足付けるもんだと思ってた

腰も肚も据えるもんだと思ってた

思いを寄せて考えを巡らせるのが人間性だと思ってた

神社では神様が祀られているのだと思ってた
感じてた


ありがとうダミーシステム。

そろそろ お開きだ。

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