我なし。故に我あり。故に我おもう。

タイトル「人を眠らせるもの」で書いた、ファーストプログラムよりも根源にある、私達ほぼ全員共通の、と言っていいほどのファーストファーストプログラムがあります。それは、

「何もしなければ何も得られない」。

それはそうでしょう。しかしカラクリがあります。得られないことが不安 になると、何もしないことが恐怖になります。
そこから労働、思索、はたまた自分探し、とにかく何でもします。

何もしないことで、生まれてくるものがあります。それは何もしないことでしか生まれません。何かをしながらでは、それを知ることも出来ません。何かをしてるのですから、生まれません。それは生まれるものであり、得るものではありません。
何もしない、とは呼吸を止めたり欲求を抑えたりすることではありません。それだと「呼吸を止める」「禁欲」を「している」ことになります。座禅や瞑想も然り。

睡眠は「何もしない」に近い状態ですが、ファーストプログラムとファーストファーストプログラムはリセットされません。稼動しない、にとどまります。

本当は何もしてない瞬間は誰しもあるのですが、完璧に無視してしまうのです。「何も得られない」から。それは「死」に等しいと。

何かをすることすら、何もしないところから生まれているのです。何かをすることで得られるものは、生まれゆくものの一部に過ぎません。何もしなければ全部あるのです。そして無いのです。

アナタがしている事は、アナタの全てではないのです。正しいことでも間違っていることでもないのです。全てではない。 そんだけ。

チブリズム

体がほどければ心も仏ます。心がほどければ体も仏ます。そして「過去」も仏ます。

それは過去の記憶がほどけるということです。もっと言うなら記憶に貼り付いた感情がほどけるということです。さらに言うなら過去が変わる、消えるということです。
1+1を忘れるほど記憶を消さなくてもいいとは思いますが(笑)。問題なのは、「わだかまり」。

霊能者に「アナタの前世はフランスの御姫様」とか言って貰っていい気分になれたり、前世で意地悪金持ちだったから今回は清貧な運命などと慰みたり、死別した誰かがずっとアナタを見守っているよと言われて超癒されたりすることはロマンチックだし結構なことですが、 過去をナンノカンノ方便することと過去が仏ることは、同じ事ではありません。

私達は時間の中で生きているが為に、時間を使って癒そうとしたりするのですが、よくよくみていくと、癒しは「一瞬の出来事」です。ケガや病気は治るまで何日もかかるようにも思えますが、体が治ろうとする働きをみせるのは、ケガと同時です。 風邪は、そもそも熱を出す事自体が治癒の働きです。

心身の緊張も、仏るのは一瞬にして、です。

整体ゾーン

近年、よく聞く言葉「降りてきた」「神」「覚醒した」。何だかスゴい事になってますねぇ。単なる流行り言葉なのか皆スピリチュアルになっているのか、よくわからないけれど。

スポーツ界ではよく言われる「ゾーン」。試合中にゾーンに入ると体がアレヨアレヨと超スムースに動き、自分の実力を超えたかのようなパフォーマンスを発揮する状態。 実はそれに似た状態で整体を受けている時は、効果も非常に高まります。というかむしろその状態になってもらう事が目的と言っても過言ではないかもしれません。

虚心、空の状態と言ってもいいですが、その時、体はアナタの思い込みやコダワリなどのコントロールから一時解放されて、天然自在にヒャッホウと踊りだして、成りたいように成ってくれるのです。
普段、アクセルを踏んで体を動かしているつもりでも、ブレーキも同時に踏んでしまっているのが一般的な私達です。
体は、表層の意思に依らずとも、活動しています。
だからといって、「よし無心になるぞ、無心無心…」などと考えても無心にはなりません。それは無心ではなく、ただの「集中」です。

グダグダ述べましたが、ちぶる整体には適当な気分で来ていただければ、あとは私がなんとかしますんで、適当に来てください。あ、でも時間は守ってください(笑)。



ブログ補完計画

当ブログで、日によって「体は自分のものではない」「体はアナタのモノ」と矛盾した事を言ったりしていますが、今回はそれについて補足します。

『自分、アナタ』と言っている時、それは自我(エゴ)という意味合いで使う場合と、単純に「自分、アナタ」を指して使う場合。内容によってはもっと大きな意味でも『自分、アナタ』と使う事があるかもしれません。使い分けた表現できればよいのですが、多少勢いで書く事があって、コメントのやり取りもしないので、つい自己完結的な書き方をしているかもしれません。気をつけますけれども、今後もニュアンスを読み取って頂けると有難いです。

補完終了。

御覧 ほらね 此処で 逢えたんだ 探し出してくれて 有り難う byキラーチューン

鞄や服などの売り文句に「一生モノ」てのがあります。良く出来た一生使えるモノ。その響きに魅力を感じ、値が張っても手に入れたいと思います。手に入れます。さてここからが問題です。

もしかしたら壊れるかもしれません。無くすかも、飽きるかもしれません。それはそれとして。
奮発して手に入れたはいいが、勿体なくて使わないとしたら、「一生置物」 になります。

一生モノかどうかは、最初に決まるものではなく、結果です。愛着を持って使いきったか。その寿命を全うさせたなら、自分の命の長さほどは使えなかったとしても、良き相棒だったといえるんじゃないでしょうか。


カラダは、その寿命が何年だろうが「一生モノ」です。マトモに使わなかろうが使いきろうが一生モノです。呼吸と共にいるものです。来世なんてものがあるとしても(そんなもん無いけど)そのカラダはアナタの「一生のモノ」ですよ!。

それは最初から決まっているものです。使いきるか置いとくかはアナタが決めるものです。
他人やダミープラグが使うモノではないのです。闇の宇宙人だの悪霊だのに乗っ取られて云々ていう与太話もありますが、そういうのがあるとしても(無いけど)そうさせているのは「眠っているアナタ」です。

アナタがアナタの一生を使いきりましょう。
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