地に足を付けるのを止めた

…何だ、これは…

寝ている時に感じることのあった超リラックス状態に、立っている時動いている時でもなり得ている。
ある部位の体の使い方を変えた(やめた)。すると仙骨から快感情報が背骨を駆け上がり、脳を満たし、視線がどこまでも遠くへ伸び、花火のように拡散する。思考は育たない。よって不安というものも生じない。不安がないのは不安だとどこかでかすかに誰かが言うが、その声は力無く消える。
「思考」は「リキミ」である故に、その本質は「マイナス」である。「プラス思考」などというものは、ない。百歩譲って有るとするなら、その意味は「激ウマカレーうんこ」と同義である。二百歩譲って有るとするなら、それは起こるものであって、作るものではない。

今のリラックス体で、チカラが出せるのか、試してみる。発勁の要領で、新聞紙を打つ。以前と変わらず拳に沿うように破れる。ただ、この今までの姿勢と動作をするのは、さほど愉快ではない。
そしてこの「イイ感じ」になっているのが誰なのか何なのか、ちょっととらえどころがない。「私」が何かを獲得したのではと考えるとソレはたちどころに所在を失う。

「私」というものの本質も「リキミ」である。私の思考、私の感性、等々というものは「リキミのリキミ」という意味である。千歩譲っても変わらない。
「無我の境地」にしろ「私」にしろそれは起こるものであったとしても作るものではない。

ミッドナイトライド(妄想)

久しくバイクに乗っていない… アー乗りてー! よし、乗るぞ!妄想で!
キーを差す。チョークを引く。跨がる。キック! ドッドドドドドー

エンジンが暖まるまで空を眺め私は唄う。(♪オー雲の切れ間にちりばめた ダイヤモンド!)

ドッドッドッドッドリフの大爆笑なんつってな、よし行くぜ相棒、スタンドガシャン、ギアカチャ、クラッチ戻してアクセルオープンドドドドドドドドドドーカチャドドドドドドドドドドー…


さ、寒!!


妄想中止。即就寝あるのみ。

リアリー?

「腰痛は二足歩行をする人間の宿命である」などという見識があります、が。 とんでもない話です。人体は積木細工じゃねえんだよ。

一方、霊とか前世とかに病の原因を求めるパターン、これはこれで危険極まりないです。

科学とオカルト、正しいのはどっちかという疑問というのは、最強の格闘技は何か。という少し間の抜けた疑問に似ています。若い頃、合気道の先生や肥田式の三宅先生に「ボクシングとコッチではどっちが強いんですか?」などと質問し、苦笑された記憶があります(苦笑)。当時は何故苦笑されるのかも解りませんでした(苦笑)。


映画やプロレスにロマンやリアリティを感じる人も感じない人もいます。 医者にウツ症と診断されて薬を出された途端に治る人もいれば、治りにくくなる人もいます。

沢山の人を虐殺しながら自然と芸術をこよなく愛していたという人もいます。

今回の話のまとめどころがわからなくなりました。苦笑。

諸行

先日、とある武道の演武会をたまたま拝見する機会がありました。開祖の示した動きを範とし、各々が修練に励んでいる様子でした。

敗戦後の日本で、ある新興宗教が盛り上がったそうです。教祖は普通のオバサンなんだけど、奇妙な身振りで「とうとう天の岩戸が開いたぞ、皆真人間に立ち返れ」とか何とかチャネリング状態で演説をして世間に注目されたそうで。で、信者はその身動きとセリフを無心で真似するのが修練だったみたいです…。

「人間は神に似せて作られた」 と言われますが。
伝言ゲームの果てに似ても似つかぬ様になり、マコトは失われたように見えても、人間の思惑には左右されず失われようのないものがマコトなのでありましょう。


大震災の時、家の数十メートル近くまで津波が来て、町は真っ黒に汚れた田んぼや壊れた家、車、充満するドブのニオイ、割れた道路、とにかく視界 に映るものは 「失われた世界」でした。そんな灰色の景色に超然と、梅の花はいつもの春と変わることなく白く咲き始めているのでした。

プロブレムなプログラム。

体の凝りや痛みは、『体に力を入れっぱなし』にしていることで起こっていたりするのですが、その緊張を慢性化させているのは、心身のプログラムです。

プログラムを変えてしまえば痛みも消えますが、話はそう簡単ではありません。人はそのプログラムで日々を運営していて、そのプログラムでうまく行っているからです、痛みの他は。

プログラムはそのままに、痛み等をケアしてあげるのが通常の施療です。一時的な過労、試合前のスポーツ選手、仕事をバリバリこなしてうまく行っている人などは、プログラムサポートで構わないでしょう。

しかしもう生活全体に支障をきたしてしまっており、プログラムにアプローチするしかない、という場合。プログラムをリセットするというのは容易な事ではありません。なぜなら人はプログラムと自分を「同一化」しているから。
痛みは無くしたい、でも自分は自分、この自分をどうにかさせられるのは断じて許すまじ、です。 そりゃそうだ。 しかし、『プログラムはアナタではないのですよ』。

そして、施術する側にしても、「ではアンタのプログラムを一端壊しましょう、ガシャーン!はいオシマイ。」 では済みません。相手にどれだけ関われるかは、自分がどれだけか、に比例します。

技術は身体を治します。 ではプログラムを治すのは?…なのであります。

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