私は若い頃、立禅をまったくやりきれませんでした。よって太極拳や形意拳の動作をどんだけ覚えていても、しょせんはロボットでしたね。

時節至らず、だったと思います。あの頃は立禅なんてやりきれる機根などぜんぜんなかった。
では今なら『あの頃のやり方で』やれるかといえば、それもまたちがうような気がします。あの頃はただなんとなく『じっと動かないで氣を感じたり回したりする』ポーズとしか理解してなかった。

立禅だろうが座禅だろうが瞑想だろうが周天だろうが、すべからく静功とは、ただじっとしているというウワベだけの話ではまったくありません。そのとき身体のメカニズムはとても具体的にあるのです。シンタイがほんとうに緻密に落ち着いていないなら精神は幻想をさ迷うだけである。

静功とは、動作で誤魔化さない功法です。シンタイのドコにナニがアルのかナイのか、あらいざらい明らかにしてゆく作業です。『どう動くべきか』でなく、それ以前の『どう動いているのか』をハッキリさせる行いです。
じっと動かないのが目的なのではありません。静かにしないとなにもわからずなにもはじまらないから静かにするだけのことです。
じっと動かずして心のチカラで身体をどうにかしようとするのでもありません。心もまた『どうにかされる側』のモノだからです。

そして『動かない』のか『動く』のかという二択でもありません。
合気や強健術の達人は動いていても動いていません。これも観念的心理的な話ではなく、事実、動いていないのです。



つづく