2 リュウセン上のアリア

※前記事があまりにも意味わからんという人や、なんかヤバくね?と感じる人は、マジに、読むのをやめてください。私もろとも発狂するおそれがあります(笑)




ヴァイオリンは、素人がいきなりやってもまともに音を出すこともできないものらしいが、昇龍天(降龍天)も、絶妙な姿勢がとれないと、ニッチもサッチもどうにも音沙汰がない。

回転方向をとらえようとしたら見事にわけがわかんなくなったのです。姿勢がずれるのでしょう。思考が働くのです。リュウセンとあるときは、「思考する私」は不在なのであるが、やがて「思考する私」がそれを把握しようとしても何もわからないのです。思考する私としましては、花咲か爺さんちの隣に住む意地悪ジイサンみたいな気分であります(笑)。


普通、氣のルートは肉体の構造と平行しているので、わかりやすいものである。関節を有り得ない方向に捻って出す氣などない。だがリュウセンは、筋骨構造に添って乗る氣かどうか…わかんない。
あえていうなら脊柱ラインだが、んーとそれは「十字に巻き付くセン」の十字部分であり、ラセンはラセンである。腸は少し関係しているかもしれない。腸が関係しているということは脳も関係している。…そうだ。通常の左右脳思考回路では、とらえられないのだ。



つづく …かどうかは…意地悪ジイサンにはわかんない(笑ワーッハッハΨ( ̄∇ ̄)Ψ)。







真体功的 ショウリュウテン

気功や仙道の「小周天」は、身体の上下前後がそのルートであるが、意念やエーテル気よりもダイレクトに重心とシンクロして360度螺旋回転昇降するチカラの回路もある。竜巻状の周天である。下降エネルギーは、排水口(骨盤底、エイン、第1チャクラ)に流れ落ちていく水のように。上昇流はまさに竜巻。スト2の昇龍拳のように身体をグルグル回す必要は、無い(笑)。
また、イメージ法を駆使してこの龍天が養われるものかどうかは?どうだろう、重心が上がるだろうから適切ではないようにおもう。下降しきらないと上昇のチカラは弱いのである。下降しきる ということは、「なんにもしない」ということである。
上昇のエネルギーを求めてばかりいても、それはあらわれない。やれることが1つだけあるとするなら、「下降をただみつめる」ことだけである。

ちなみに、右回り左回り はあるけれども、たとえば台風を宇宙から見たときと地上から見たときは同じ回転でも向きが違うように、二元的には一方向であっても一元的には二方向というか‥ん?逆か?書いてる私があんましよくわかんなくなってきた(笑)。
んーと。受動的下降と能動的下降があるようなかんじで、受動的上昇と能動的上昇もあるようなかんじで、ここでいう能動的とは、「なにもしない」ことと矛盾する内容の能動ではなくて、うーんなんといいましょうか、、「自動能動」といいましょうか!
前前記事で書いた「右往も左往もしていない意識、シンタイ」そのものの能動性である。

もう言ってることさっぱりわかんないですかね?私も書けば書くほどわかんなくなってきますからね、ここはひとつ端的に記号的に説明しましょう、それは「十字に巻きつくヒモ」のようなセン。しかしこれはこれでまた、イメージ法を否定しときながらイメージを要求しちゃってますよね。どうもすみまセン。
もう無理。落ちきらないで書いてるからやろ。

すべては、共鳴、共振、できればいいのだけれど。文字もイメイジングもいらないのだけれどなあ。

※この記事、のちに加筆修正もしくは削除する可能性アリ。








真心じかけのオレんち 1

フィギュアスケートに関する報道を見ていたら、解説者の元選手が言っていた。「私はアンバランスな体でジャンプする癖がついていたので、整体とかで矯正してもらうと逆に調子狂っちゃって回れませんでした」と。

それで結果が出て、それでいいのなら、それでいいんだろう。あえて矯正する必要もないのかもしれないが。。。
先日優勝した紀平選手は、真っ直ぐな身体バランスと自己の基準値に差違はほとんど無いらしい。ちなみに筋トレもガンガンやってるらしい(笑) 宇野ショウマ選手は過去には筋トレやってたけど ものおもうところあって止めたらしい。

若い人は筋トレだろうと「自分の意志で積極的にやるなら」全然いいとおもってる。むしろ逆に、太極拳や形意拳や合気は、若い人にはあんまり向かないような気がする。カンフー映画みたいな演武術とかブン殴り合う格闘技のほうが向いてる。クンフーを養う器がそもそもまだ形成されていないのだから。


身体や年齢ではなく「スピリットがまだ成熟へ向かっておらない青い人」も、内家拳みたいなものはおそらく向いていない。悪いとかイイとかじゃない。時節の問題である。

「悟りの修行」というのも、修行で悟る人などいないだろうやと、私はおもっている。もし悟ったなら、それは修行で悟ったのではなく生きていて時節が到来したから悟ったのだ。修行は超 必然的に「おこなわれた」だけだ。行いは修められたのだ。










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