リュウシンタイコウとエンシンタイコウ

中国武術に八卦掌というのがある。私は習わなかったのでどんな形なのか詳しく知らないが、たぶん、すぐ出来る。自慢ではありません、事実です。いや、もうちっと謙遜しとくか。なかなかスジがいい動きが出来るとおもいます。うん。これが事実だろう。



地球は まるいですね。でそのカラダは縦軸と横軸がありますね。中心部がどうなっているかは、科学だろうがオカルトだろうがハッキリとしたことは解明されていませんね。 私達は普通、赤道直下や北南の極点には居ません。そして日と月と地の引力と地の遠心力と重力の影響下で生存しています。そして個の肉体という物質は相対的に非常にチッポケです。個としてくくるなら、地球全体の中では非常に部分的であり、居ようが居まいがどうでもよさそうな存在であります。
ですからおそらく、西洋人は自我を肥大させ、日本人は自我を否定し、インド人は自我を殺してきたりもしてきたのかもしれません。今までは。
そして、戦争はいつだって止まないのかもしれません。これからも。


機械式の時計は、振り子運動を利用した構造になってから、重力だけを利用した構造の時計よりもはるかに誤差が少なくなったそうです。
ずばり、スワイショウが非常に優れた運動なのと似ていますね。しかしそれでも重力波の影響は多少受けて多少の誤差が避けられない。では誤差の出ない機械、機械的運動とは何でしょう。電波時計と肥田式強健術でしょうか。

電波時計のことはよくわからんしなんとなく完全には信用してないからよくわからん。
では運動については。

肥田式強健術が誤差ゼロ運動なのではなく、肥田春充が誤差ゼロ運動をしたのである。
しかしそれはまた、肥田春充の「パーソナルベスト」ではないのである。


次回
「真体光」





その2 悟りとゼロ

悟りを開いた人は睡眠中に夢を見ないらしい。ルパン三世も夢を見ない。私はたくさん見る。毎日たくさん見る。夢を見たくて眠っているほどである。だから夢の途中で夢だと気づいても、あえて起きない(笑)。


ボディワークなどをしない人の、身体の無自覚さによる無意識動作と、ゼロポイントボディによる自覚的無意識動作は、全くちがうものであるように、おそらく、普通一般の我々が、「夢を見ない、あるいは覚えていない」意識と、悟りを開いた人が夢を見ない 意識は、同じではない。悟った人は夢を全く見ないわけでもないんじゃないかな。 ただあっさりスルーでおしまいになるんゃないのかな。ルパンみたいに「現実世界でも夢を見ない」 んじゃないんですか。


「意のままの動作」と「無意識の動作」や、「力の入らない体」と「力の出る体」。 ゼロポイントボディではこれらは矛盾するものでも対立するものでもなくなります。


次回予告
「リュウシンタイコウ」
「エンシンタイコウ」




ムシンタイコウ


舞踏とは命がけで突っ立った死体である

(土方 巽)



真体功は勝手に突っ立った龍体です。

体を突っ立たせるのは今まで使ってきた筋力や意志ではありません。軽さを超えた軽さ、重さを超えた重さの体になる。脱力というのは、あくまで、旧来の身体から観たうえでの感覚、物言いである。龍体覚醒したなら、力は入らない。入らないんだからもちろん抜きもしない。ですから「力の抜け具合」というモノサシなどもない。速さ遅さもない。常識的な物理の土俵では相撲を取らなくなる。


比喩ではなく実際に、思考にも重さがある。ポジティヴ思考は軽いしネガティヴ思考は重いが、フラットマインドには軽さも重さもない。

ゼロポイントボディ、フラットマインドの特質をさらにいうなら、時間もない。


ないないづくしで、なのになぜ身心がどこかに消えて無いわけじゃないのかというと、「ない」とは「重力に対して一定の基準に居着いた身心がない」という意味です。

重力に抗う筋力に依った身体や、重力に振り回されるだけの身体は、もうそこには無い。 カルマを引きずった思考による思考および身体操作は、もうそこには無い。






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