♪人として シトと出会い
人として シトに迷い
人として シトに傷つき
人として シトと別れて
それでも ヒトしか
(海援隊 人として 千葉訛りバージョン)
胸が痛くてなんだか悲しい日の夜だったかにね、雨が使徒使徒 もとい しとしと と降っていたのですが、ふと、鉄バケツの底かなにかに ポン と少し大きな粒が落ちた音がしました。私はハッとして、それがなぜなんだか少し可笑しかった。そしてしばらくなんとなーく聴いていたシトシトポッチャンシトポッチャン。聴けば聴くほど可笑しくて、ニヤニヤクスクスケラケラ笑ってました。
「私は悲しい」わけでも「私は楽しい」わけでもないわけですよ、もう。
悲しみ や 楽しみ が、在ったり過ぎたりまた在ったりしてるだけで、その悲しみや楽しみの理由なんて、なんでも結びつけようと思えば結びつくのです。たとえば目の前に吊るされている服を見て、悲しみにくれるのか可笑しくて笑っちゃうのか、どっちにも転ぶのです。私はポジティヴシンキングの実践とか死ぬほど嫌いですから、「笑い」ばかりを選択しようとは思わないですし、笑おうと「しよう」なんてのは、脱力を「しよう」とするのと変わらない、世界最凶のリキミですから、できません。それでも笑うときは笑う。
身心が、笑い運動をしたいのか悲しみ運動をしたいのか、それは身心にまかせる。というか、身心が何かにまかせてるのかな。とにかく泣き笑いに大した因果など感じられない。
真体功をやろう!とおもってやるのにしても、私がそう思ったような気にさせられているようでして、私は真体功をヤル気マンマンにやらされているのだ(笑)。誰に?どこぞの神様とか悪霊にとかじゃないなあ。
岡本天明は、日月神示をアメノヒツク神社で突如電撃的に書きはじめたという伝説になっていますが、それは違います。ほんとうはそれ以前にプレ自動筆記をしていたようです。プロローグが抜け落ちています。神話を神話化したい人間の業でしょう。「岡本天明伝」という本に、日月神示ではなく人間岡本天明の伝記が書かれていました。彼は偉大なアーティストです。甲本ヒロトはファンに神様扱いされたら、いい気もちはしないでしょう。私達はゴーダマシッタルダやナザレのイエスの人となりを全く知らないし、ゴーダマブッダやイエスキリストを、ほんとうには知らないのである。