ライク ア ローリングボーン

真向法の第二体操(要するに前屈) と、フラダンスのローリングという技(膝を畳んで床に着けて、上体をぐるぐる回したり起こしたり倒したり)は、肥田式強健術を練習する人にとっても有効なエクササイズであります。その理由は最後に書く。


肥田式は極め付きの垂直運動です。単純といえば超単純なのに、ほとんどの人はちゃんと出来ない。それは肚腰が活きていないからである。そして死ぬことを怖れているからである。

いちおう、私の今の個人的な イメージ(真体功的表現)と御断りして、身体感覚を説明させていただきます。身体における自己という感覚は背骨もしくは背骨の前あたりである。体の前方ではない。顔は前にあるし前に歩くし、へたすりゃ人は前に前に意識が行きがちかもしれないが、それでは駄目だ。背骨はバックボーンというより本体ですらあるのだ。
龍の如くあれ。
宝玉は下肚正中心にある。

自分といふものが何故今ここにいるのかというような哲学的な疑問や悩みは、体の前面で考えたり行動していても、一生わからない。中心に帰るなりホンシンに戻るなりするかぎり、そんな疑問は浮かばない。

あと、肚は、垂直に矢を放つ弓の如くでもある。前述の2つの体操は、『弓のメンテナンス』的な作用があるのです。
そして肥田式は『射』であります。

すなわち『矢』はチカラです。真氣です。

ですから腰腹の正中心は、『的』ではありません。正中心にチカラ(矢)を放つのではないのです。上肚が矢をつかみながら弦を引き絞っている右手、下肚正中心は弓を押さえている左手です。的は身体にはありません。



次回予定『ジャンピングジャンクフラッシュ』







くるくるパーソナル

赤ちゃんは、くるくるするものが好きらしい。

俺も元赤ちゃんとして、当時のことを思い出してみようとするが、全然思い出せない。モノゴコロつきはじめた頃見ていたものばかりが目に浮かぶ…
ベッドの柱
タンスのシール
漫画『ハレンチ学園』の女のオッパイ


てゆうか私は今、くるくるするものが好き。くるくるしたタトゥを入れてしまっている。くるっと丸い靴や乗り物や建物が好き。
思うに、くるくるは、原初的な氣奥だ。ヒトは、くるくるからこの世界にやってきた。だから赤ちゃんや私が本当に好きなのはこの世界のくるくるしたモノというより、呼び覚まされる元の氣に喜ぶのである。

時系列的に積み重ねる記憶とは別物。くるくるパーである。バカになれ と言ったのはアントニオ猪木だったか? 水になれと言ったのはドラゴン…

ハッ! てことは!
『渦になれ』だ!

渦であれ だ!

ワッハッハッハ !

ワーッハッハッハッハ!
マーッハッハッハッハ!
Ψ( ̄∇ ̄)Ψ



次回予定『腰痛は(ムカムカ)(ビクビク)(イヤイヤ)によって引き起こされる』。






レッツら ホンシン


ウラーッ!! (ボグッ!)

こんばんわ、ジダンです。現役最後のヘディングは、イタリアのクソ野郎の胸に突き刺してやりまシタ。
ところで日本では、スポーツをするうえで『根性』が必要らしいですね。マジですか。



武道の達人が幼いうちは虚弱だったっていうケーズがよくあるのは、ある意味『運命の設定』なのではないかとおもう。
アインシュタインが勉強の出来ないバカな子供だったというのも、似たようなことじゃないの。


私は中学生時代、スポ根もどきの部活ライフを経験してしまい、その後、根性が大嫌いになった。 苦しい思いをすれば、苦しい汗をかけばそれはアトで糧になるというのは、大ウソだと、その経験で学んだ。苦しい思いは苦しいだけであり苦しい汗は身体を壊して終りである。
今また思う、そしてその経験は、ある意味、真体功へのプレプロローグだったのだと。

話を少し変えますが、
元巨人の桑田真澄は、時代の風潮に逆らって先進的なトレーニングを独りで色々やっていたらしいです。プロ1年目から、今では当たり前になった投球後のアイシングを当時やっていたらしい。でもオッサン連中にどやされたんですって。それでもひるまずコッソリやってたそうです。
で、高校時代の過激な練習も、実はコッソリ抜け出して適当な休息をとるようにしていたらしい。繊細かつ図太い、つーかやはりクレバーな人だったんですね。つーか、そういうのを本当の根性というのではないだろうか。そういえば現役の後半は、武術研究家の甲野さんの武術からヒントを得た投球をしていましたね。あの時もオッサン解説者に否定されてましたけど(笑)。


話を戻しますが、
つまり今回記事で云いたいことは、気に入らねえヤツは間髪入れずにぶっとばせ…もとい、根性なんか要らねえからホンシンでやってみようぜイエーイというはなしでした。






Be ホンシン

筋肉トレーニングは、鍛えるその筋肉を意識することで より効果を上げるといいますが、それは逆に脱力においても同じです。

リキンでいるソレを意識できたなら、ソレと自分の解離がはじまる。リキンでいるソレを意識できている自分はそのリキミそのものではないことに気づけるからです。
しかしうっすらそれができても、ずっと繰り返してきたパターンによって、すぐまたリキミ肉に戻るかもしれませんが、意識や気づきが深まるほど、それはいづれアッサリと手離せるようになり、やがてリキもうと思ったってリキめないほどになるでしょう。

さてこのことは、脱脳力にも言えることではないでしょうか。前頭葉だとか視床下部だとかってのを、筋肉ほどには分別して知覚できない(脳科学に明るい人なら起こっている思考と働いている 部位の関係を逐一認識するというような独特の瞑想法ができるのかもしれませんが) けれども、
思考というリキミを意識(観察)しているなら、やがてそれが自分ではなくリキ脳だと気づいてくるのです。
しかしここから先は、心のワダカマリ、トラウマつまり心のリキミが絡み合ってきます。ですが脱ハートについてはいづれまた別の記事で書こうとおもいます。


『リキンでいる自分』などというものは本来そもそも、存在しないのであります。ただそこに『リキミ』が生じているだけなのだ。
リキンでいる自分、などというマボロシに居着いたら、脱力もへったくれも叶いません。リキンでいる自分というマボロシがいくら努力をしようが何年修行をしようが、すべてはマボロシなのです!
大きくくくりゃあ、ヒトはマボロシを味わう冒険をするというか、そんなプロセスを歩むのもまた、人の道、なのかもしれません。ですから、『リキンでいる自分』という自分ではないものを丸ごと、観察してみたらいい。


中心空軸というのは、ハラやハラ腰、ハラ腰の一点、とは限らないのである。天、アタマ、ハート、ハラ、地 のムスビのセンなのであります。





ホンシン ロン


『脳が身体を操るように…』と、人工知能搭載のヒゲソリ機のコマーシャルが言っていた。

ボディワークをする者であるならば、このセリフは不正確であるし、なんだかこういうのって、一種の催眠術みたいに聞こえる、私には。

リアルには、カラダが脳を操るのである。それは『何も考えてない体育バカ』的なことでは全くないのです。むしろ脳が身体を操っていると思っているあるいはそういう知覚をしているほうが『何も気づいていない脳バカ』なのである。


ここで肥田春充を引き合いに出す。彼の肉体面での、単なる肉体力を獲得した時代と聖中心力を悟得してからのそのチカラの違いはいろいろ述べられているが、頭脳においても、頭脳力を鍛えていた時代と、聖中心頭脳に転換してからは、別物の脳力になったのである。

そこでまた言おう。リアルオブリアルには、空が、中心がカラダを操るのである。脳は『うつる』ところです。






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