ウラーッ!! (ボグッ!)
こんばんわ、ジダンです。現役最後のヘディングは、イタリアのクソ野郎の胸に突き刺してやりまシタ。
ところで日本では、スポーツをするうえで『根性』が必要らしいですね。マジですか。
武道の達人が幼いうちは虚弱だったっていうケーズがよくあるのは、ある意味『運命の設定』なのではないかとおもう。
アインシュタインが勉強の出来ないバカな子供だったというのも、似たようなことじゃないの。
私は中学生時代、スポ根もどきの部活ライフを経験してしまい、その後、根性が大嫌いになった。 苦しい思いをすれば、苦しい汗をかけばそれはアトで糧になるというのは、大ウソだと、その経験で学んだ。苦しい思いは苦しいだけであり苦しい汗は身体を壊して終りである。
今また思う、そしてその経験は、ある意味、真体功へのプレプロローグだったのだと。
話を少し変えますが、
元巨人の桑田真澄は、時代の風潮に逆らって先進的なトレーニングを独りで色々やっていたらしいです。プロ1年目から、今では当たり前になった投球後のアイシングを当時やっていたらしい。でもオッサン連中にどやされたんですって。それでもひるまずコッソリやってたそうです。
で、高校時代の過激な練習も、実はコッソリ抜け出して適当な休息をとるようにしていたらしい。繊細かつ図太い、つーかやはりクレバーな人だったんですね。つーか、そういうのを本当の根性というのではないだろうか。そういえば現役の後半は、武術研究家の甲野さんの武術からヒントを得た投球をしていましたね。あの時もオッサン解説者に否定されてましたけど(笑)。
話を戻しますが、
つまり今回記事で云いたいことは、気に入らねえヤツは間髪入れずにぶっとばせ…もとい、根性なんか要らねえからホンシンでやってみようぜイエーイというはなしでした。
筋肉トレーニングは、鍛えるその筋肉を意識することで より効果を上げるといいますが、それは逆に脱力においても同じです。
リキンでいるソレを意識できたなら、ソレと自分の解離がはじまる。リキンでいるソレを意識できている自分はそのリキミそのものではないことに気づけるからです。
しかしうっすらそれができても、ずっと繰り返してきたパターンによって、すぐまたリキミ肉に戻るかもしれませんが、意識や気づきが深まるほど、それはいづれアッサリと手離せるようになり、やがてリキもうと思ったってリキめないほどになるでしょう。
さてこのことは、脱脳力にも言えることではないでしょうか。前頭葉だとか視床下部だとかってのを、筋肉ほどには分別して知覚できない(脳科学に明るい人なら起こっている思考と働いている 部位の関係を逐一認識するというような独特の瞑想法ができるのかもしれませんが) けれども、
思考というリキミを意識(観察)しているなら、やがてそれが自分ではなくリキ脳だと気づいてくるのです。
しかしここから先は、心のワダカマリ、トラウマつまり心のリキミが絡み合ってきます。ですが脱ハートについてはいづれまた別の記事で書こうとおもいます。
『リキンでいる自分』などというものは本来そもそも、存在しないのであります。ただそこに『リキミ』が生じているだけなのだ。
リキンでいる自分、などというマボロシに居着いたら、脱力もへったくれも叶いません。リキンでいる自分というマボロシがいくら努力をしようが何年修行をしようが、すべてはマボロシなのです!
大きくくくりゃあ、ヒトはマボロシを味わう冒険をするというか、そんなプロセスを歩むのもまた、人の道、なのかもしれません。ですから、『リキンでいる自分』という自分ではないものを丸ごと、観察してみたらいい。
中心空軸というのは、ハラやハラ腰、ハラ腰の一点、とは限らないのである。天、アタマ、ハート、ハラ、地 のムスビのセンなのであります。