中国武術でいうところの収功。スポーツでたとえるなら、しまいにおこなう整理運動は大事。

氣が通っていなくても太極拳などの型を練習するのは、初心者なら普通なことです。私は太極拳の型を練習していた頃は氣感が全然わかりませんでした。でも、だいぶのちに氣が通るようになってから、昔やっていた太極拳の型を思い出したというか、型の理をそのときやっと身体が理解できたのです 。
収功は単なるポーズではなく、氣の動きが出来ているならそれが如何に大切かわかる。氣功動作すべてにいえることだが、型は必然的に生まれているものばかりである。


で、氣功で発せられている氣というのは、中心とか真氣とはイコールではありません。平たい言い方をするなら、中心→氣→肉体、思考 の順で、遅く粗いものになります。
稽古とか修行といえばふつう、遅く粗いものが速く細かいものへ、そしてさらに静寂へと向かうプロセスと思いがちですが、ぶっちゃけそもそも、遅く粗いものが速く細かいものへは成れません。もともとうるさいものがもともと静かなものには成れないのです。

ボディワークだろうがスピリチュアルだろうが同じことだとおもいますが、それは自分を自分ではない何かにするためのものではなく、
そこには認識、シフトというような 「出来事 」があるばかりなのである。