身体の変化だか浄化だか進化だかの記述を してみよう
全身をエネルギーが這い回る。
私は男なのであくまでも空想だが、受胎、妊娠、出産というプロセスに似たような何かを感じずにはおれない。
生存欲求にもとづく、初源の本能的レベルともいえるリキミのネットワークが、剥ぎ落とされていくようである。異常な快感である。果たしてこれが抜け落ちたならば、死ぬことになるのかしらん、などと考えようとしても、頭が痛くなる。 その思考というかリキミのリキミによるリキミのための生き残り大作戦にて、頭部が全身の微細な震動を押さえて止めてしまうからだ。
これって、ヤバイことなのか何なのか、もう仙人かグルにでも訊かないとわからんが、体がパッカーンと開いていく動きは、止められん。先のことはサッパリわかりませんな。
完全に一般的健康的な整体としての話を逸脱してますが、どうでもいい。ハナからコレだったやん、このブログ。てゆうか、ちぶる整体。 てゆうか、全部な。
進化した新たな身体感覚が単なる一時の模擬体験であるならば、それが消えれば終りである。そうでなく、恒常的に根付くならば、新鮮な感動は薄れるものの、更なる感動が胎動しているものである。
立っているだけで、常に地球に引っ張られているような感覚です。何もしなくとも丁度良いストレッチをしているように。というか、何もしないからこそこれがある。
何もしないといっても筋肉は使われています。内転筋 骨盤底筋などは明らかにセンサーの役割をしている。つくづく筋肉はリキミでギュウと固めるものではないと感ずる。しかし大腿四頭筋などは動作のストッパーのような働きをするので、リキミと呼ぶ感覚に似てはいる。それでもすべからく筋肉は、チカラを伝達する器官である。込めるモノではない。筋力とは「渡す力」であります。
学ぶ、教える、施す、こういったものも「ワタシ」の働きであります。
寝た姿勢での呼吸法をしていて、これまたマッパ式が創造された。厳密にはこれは呼吸力の鍛錬ではない。骨盤の精妙な操作です。2種類。 ですから肺活量や腹圧を強く大きくすることが目的ではありません。呼吸力鍛錬を私はやってこなかったのは、筋トレと同じで、頭がボーッとしてキモチいいものではなかったからです。このやり方なら逆に上虚下実のスッキリポカポか効果が絶品だ。たったの2種2回十秒位で。。中身の薄い我流にはなっていないと思う。私一人でやっているだけなので我流なのは間違いないが(笑)
でも肥田式だって肥田さんの超我流である。
…スッキリどころか冴えざえして全く眠れん(笑)中心運動の随だけをしているかのような操法です。朝目を覚ました時にやるやつだな、こりゃ。
今度は出雲神話のスサノオの話とオオクニヌシの話を身体が理解した。
以前の記事で神話について何らかの記述をしたと思うが、あれはちょっと間違った解釈だったかもしれん。読み返してみないと何を書いたか覚えていないが。
しかし古代の人は、あんな抽象的な話で真意を伝えるとは。意図的にであれ、あれでこそ古代人は理解できる表現だったのであれ、素晴らしいことである。 ある意味で進化した私達近代人は、ある意味で確実に退化した。 カナメを鈍らせることで、「遅くあるもの」を肥大させてきたのであろう。しかしそれも超えることを含めての、進化なのであろう。
古き赤き龍の国、いつも。
今日の私はもう昨日の私ではありません。しかしながらイノチはもっと大きな波のウネリの如くにあります。
「せねば」という意識からの動作は、アウターマッスルや随意筋や屈筋を主動させますが、本当にキモチのいい意識からの動作は、深層筋や不随意筋や伸筋が使われます。それは大波のウネリに似ています。
大海の大波に、いい波だの悪い波だのありませんノージャッジですノールールです。お天道様に、すべてを観てもらったらいいのだ。大波小波のキモチいいを、捧げるのだ。
日本神話の「天の岩戸開き」のくだりみたいじゃんね。