修行であれ、非凡な能力であれ、神との合一体験であれ、そういったものは、『自分』を手放せないかぎり、待っているのは虚無です。 『自分』というものは、若いうちは肥大し、年をとり硬直します。

屈筋とマインドは、何かを掴もうとします。

それは『自分』の働きです。 瞑想がどんだけ進もうが、掴もうとする働きがある以上、無意味です。身体中心軸が構築されても、掴もうとする働きでは聖中心には至りません。



屈筋とマインドに意識的な働きをさせているうちは、屈筋とマインドがゲットできるものをゲットします。そしてそれはいずれ失うものであるから、潜在的な恐怖もセットで抱えます。

屈筋とマインド、それ自体が脱力や無心の働きをすることはできません。禁欲をせねばという強い欲で去勢をしてしまった人がいたらしいですが、それと同じで、マインドの力で無心を切望すると自殺に向かいます。


『屈筋とマインド』『伸筋と意識』の主従、ポジネガが逆転すると、『恐怖』は存在しません。
心身の話で例えますと、ウツ症、凝り性は改善されます。