中心練修会の日誌を読んでいると、人それぞれ特性があり、どういうアプローチで指導&自己修練をするべきかは、画一的工業製品の大量生産的には行われていないことがうかがえます。

ちぶる整体術も当然そのようになります。エチュード(即興)なくして整体はあり得ない。今の最高級マッサージ機がどこまで進化しているのか知りませんが、「臨機応変」はヒトの行為には必須である。仏陀の待機説法とかいうのも同じことでしょうか。 二枚舌であってもそれは方便。根底にあるものが1つならば千枚舌であってもかまわない。
ボディワークならば根底とは正中心。ヨガや護身術の技を表面的にコレクションしていくやり方とは異なる。千枚の舌をくっつけて取り換えて喋る わけではないのです。

健康やスピリチュアルなどの書籍で近年よく見かけるのは「すべては○○」的なタイトルです。すべては何だと言ってるかはマチマチですが、そのスベテとやらはどこまで真に掘り下げられたものか 。ヘタすりゃ単に本が売れやすいワードとして扱われている気もするが。

前置きが長くなりました。ここからが本題です。中心姿勢を決めるのは首である。

肉体の首を整えるというのは勿論なんですが、それだけの話じゃない。
「客観視」というものがあります。ボディワークなら身体を、瞑想なら自己を客観視するという。でもそれは、首(または首のエネルギー)をズラして首から下のボディ、マインドを観察することではないとおもいます。

ほんとうの観察能力というのは、観察されるものと同じ次元のものではありません。観察されるものを二分割して、観察するものと観察されるものに分けることではないのです。

首をフラットにして、観察されるものは観察することをやめるのである。 完全にやめたとき、別のレベルから観察するものがはじめて立ち現れるのである。

「何もしない」と「全身全霊」が矛盾しないカラクリもここにあります。



次回予定
「元真剣」