『チコちゃんに叱られる』という番組を両親が見ていました。『空気を読む』を科学的に解明していたようで、ふと私も立ち止まって1分くらい見ました。

コンピュータで顔の表情を細かく解析することで、言葉にはしない本心を読み取るという。 おそらく、メンタリストのダイゴっていう人とかは、器械の解析に頼らずとも、一瞬の動きを見逃さないとおもう。

で、フツーの我々は、細かい動きは捉えられてはいなくとも、潜在的に、なんとなく空気感として感じることは出来ている。 いや、『出来ていた』と過去形になりつつあるかもしれません。


さて、
合気の達人や肥田さんの動作のフィルムを、同じように細かく超解析できたら、見えてくるもの、解ってくるものがあるかもしれない。そしたら我々凡人は、その科学的恩恵を受けることでしょう。
でも反面、失ってはならないものもある。それは『なんとなく』を感じる感性である。

肥田さんは、合気やオカルトと違い、科学的理論を動作に『ねじ込んだ』(笑)が、それでも『なんとなく』を失わなかった。
彼は42才のある日、斜腹筋運動を、なんとなくつい
腰を反ったままやってしまったのだ。


熱烈なキモチでやってやってやりまくったかのような表現を、本人は文にしたためていますが、 厳密にはたしか『純真なる本我において』と書いてあったように記憶しています。
純真なる本我とは何でしょう。 理論的動作でもキモチ的衝動でもなく、また、曖昧的『なんとなく』でもないことは確かだとおもいます。