真体は、かならずしも、姿勢を決めなければ生まれないものでもない。

真体と姿勢の関係は、電気のスイッチみたいに、姿勢をきめる(オン)&ゆるめる(オフ)というよりも、『明るさ調節』である。姿勢を決める=明るさMAXにする、ということ。

ではその明るさに不都合は無いのだったら、なにも姿勢を極める修行だのなんだの、しなくたっていいじゃん、と思う人もいるかもしれません。
しかし、マキシマムな明るさにしてこそはじめて明るみになることがあるのである。テンカンするのである。『』

『灯りを使って本を読む』のでなく、明かりが本を読むようになるのです。
目の前で揺れる笹の葉は、晴れた日中ほどよく見えますが、シセイをハッキリさせるということは、外の明るさを明るくしてソレを見ようとすることではない。発光することです。そこで観る笹の葉は、もはや、『外が明るいから見えている笹の葉』ではない。

真体は客体ではない。くしゃみをしたら壺から出てくるハクション大魔王、つまり姿勢をとらないと出てこないチカラなのではない。ただし、真体の純度高くするには、姿勢をきめるのがいいのです。肉体や心が自分だという『錯覚』にとらわれにくくなるからです。

宗教者や修行者は、食欲や性欲を否定しています。食事や性の快楽は、肉体意識を強める作用も伴うから、それを避けたいのだとおもわれます。
しかし、欲求の抑圧に成功してるからといって、光明が得られるわけでもないとおもいますよ。

真体にはそのような欲求は無いだけです。