其のサン


ひたすら太平洋が拡がる視界をもたらす浜辺の丘で正坐すると、肥田式で云う『瞳孔のフゲイ』には、あえてそうしようとしなくとも自然と誘われる。

そうした環境には、特に現代人は恵まれていません。だからといってそうした視界の場所でなければ瞳孔のフゲイも叶わないと言っていたら、どうしようもありません。

竜安寺の石庭なんかは、限られたスペースに、絶妙な石の配置をし、無限空間が拡がるかような演出がなされているような気がします。
しかし大多数の私達は、シャバから切り離された環境に身を置き、剃髪をし、精進料理だけを食し、そのような庭の前で座禅に没入する生活を送れるわけではない。

しかし目の前が太平洋でなくとも石庭でなくとも、目の内には大海原や大宇宙が拡がっていなければならない。もちろん、ソレを妄想するのではありません。


腰腹が錐体系運動では決めきれないレベルのシセイをとれるのも、
内の視界が拡大するのも、
胸次第です。
胸は穴が開くほど空っぽにします。よく『無心』といわれますけれども、正真正銘質量ゼロであってはじめて無心です。たまたま心穏やかであるとかいったような、心の様子のこととは全然違います。
タマシイなどといわれるものは、本来は、そこに居てるわけではありません。キモチはタマシイではありません。



つづく





その2




かつては、腰の決め方のコツというか心持ちについて、私は、『仙骨を立てる』と表現していました。 腰椎ばかりに意識があって骨盤は眠りこけているような身体が、変わっていっていた頃に意識していた感覚です。

しかし今は逆のことをいいます。『仙骨は寝かす』。

仙骨をおもいきり、うつぶせに水平に寝かす、ほどの心持ちです。全体重を仙骨と腰椎五番の関節に乗せきってしまうように。反発力で尾骨が持ち上がるように。

骨盤をとりまく各インナーマッスルは、『立体十字』『立体六芒星』『球体』を感じさせるような筋緊張が形成される。
その均整のとれた幾何学構造力にふさわしくないアンバランスなリキミは、呑み込まれて消えるのである。そしてそのバランスが極まるとき、はじめて、スガタカタチ無き下肚の真空カンが立ち顕される。

ところが、
身体を、1つの物 としてとらえるなら、その中心点は只1つであるかもしれませんが、身体の実相は、そのような物ではない。
寝かせた仙骨の上端に全体重をかけるというのは、下肚のキメ方の要領です。
だが、中心は、『場所』ではないのである。
ただし、導入部といえる場所はある。
しかし、中心とは、身体内のどこか一点のことではないのです。








ハートが無くなった




随分若いときのことですが。
睡眠中に『えんてつけん』という言葉が頭に浮かんでました。起床してからもキッチリ覚えており、何日経っても忘れられませんでした。

通常の思考では『えんてつけん=円哲拳?』などと考えておりましたが、既成の拳法にそのような名前のものは無かった。
それからあまり月日の経たないうちに、モーニングかヤングマガジンか忘れましたが、週刊漫画誌に『えんすいけん(円錐剣)』という読み切り漫画が掲載されました。私は『むむむ!?これは何か関係ありそうだ!』と思ってな、ソッコー買ってん。そして読んでん。
しかしそれは、ちょっとギャグテイストの漫画でした。主人公の剣の技が相手の身体を円錐型にくり貫く、というものでした。エンテツケンとは関係ないなとおもいました。

しかしなんと!、30年近くの時を越えて、なにやら、あん時のなんやかんやが、繋がりはじめたのである。

でも、このことについては、まだ文章では説明できないので、今回はその話とは別の、ボディワークとかしてらっしゃる方々の参考になりそうな話を一個、書いときます。
頭部(頭蓋骨)は、『皿回しの皿』のようなもんです。








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