アムリタ

腰腹同量らしき一点の姿勢を定めると、なにやら唾液が随分豊かに分泌されます。

そういえばヨガではクンダリニーが上昇だか覚醒だかすると、頭頂からアムリタという甘露が口の中に滴り落ちてくるという話を思い出しますが、私は甘露の元はまず腰腹の奥深くから沸き上がり、それが頭頂にまで至り、そこから滴るのだと感じます。

インドの神話ではアムリタとは大海からとれる不死の飲み物、神々の飲料であるという。腰腹は氣海丹田ともいいますし、唾液は万能の薬のようなポテンシャルがあるらしく、また、唾液と同じものは人工的には作れないという話も聞いたことがある。これら各々の話がすべて重なって腑に落ちる。


そういえば私は奈良の三輪山へ行ったときも、麓を歩いているあいだ、ヨダレがあふれていました。猛暑日でしたが、喉の渇きは感じないどころか満たされていた。そして帰り際に山から重要なメッセージを聴いた(ような気がした)わけですが、それが今回の話というか、中心姿勢そのものと、見事にシンクロするのであった。このいきさつを具体的に説明するには本一冊分くらいの文章量と文章力が必要だろうから、ブログでなかなか書ききれない。





ニルヴァーナ


タイトルは、シンタイコウ式サイシン動作の名前です


すべてはここに集束しました。









その2 シンセイ

前回のつづき。


まず、「固い平凡な姿勢」については書くのめんどくさいから省略。ようするにツマラナイ姿勢全般だよ(笑)。

次。エヴァ姿勢。といってもいろいろあるが、ここでいうのはパイロットとシンクロ率が低いときの手がブラーンとして前屈みの姿勢について。あれは、チカラが憑依されるのを待ち受けている姿勢である。超リラックス脱力姿勢でもある。そういやあ最近みたことがあるな、あの姿勢…メイウェザーがやってたな。。

座禅姿勢と肥田式的姿勢の違いは、目にあらわれる。どちらも目の開き方の指図があるが、姿勢がとれれば自然とそうなるものである。その目から見える世界が、「自分」というものの感覚をもあらわしている。
ここまで書いてふと、今ここでこれ以上の説明はしたくなくなってきた(笑)。ぜひ 体験をしてそれを知っていただきたい。知っている人もいるだろう。


あ、ちなみに、以上のどの姿勢も、肩甲骨が胴体(肋骨)と癒着していては、とれません。前屈運動ですら、肩甲骨が弛んではがれていれば、身体はグンと曲がるし伸びます。パンチはもちろん体当たりにしたって肩甲骨を胴体に固めるものではないんではないかとおもいます。
「固い平凡な姿勢」も、肩甲骨を浮かすことで、かなり変わることでしょう。
あ、も1つちなみに、シンタイコウ動作「フェニックス」は、中間動作で、覚醒したエヴァみたいな姿勢をとります。







ゼンセイ

私は、前世とかの話は、自分がリアルに何か感じないかぎりは、話半分にしか信用しないけれど。

座禅を組むと、妙な感じになる。なんだか、「私はこの感覚を大昔から知っていた」といったような。前世で修行者だったのだろうかとおもったが、なんか少しちがうような気がする。仮にそうだったとしても、その過去世の思い出には限定されていないような、もっともっと原初の記憶である。

「いつか見たことがある」ではなく「いつもみていた」 そんな恒久的なデジャヴは、そういえば何度か感じたことがある。座禅で訪れる感覚と奈良の三輪山を訪れたときの感覚はソックリだ。部屋の外の庭と三輪山の風景の区別がつかなくなる。

私はエヴァを観賞したときもデジャヴ感覚がアリアリとあったのですが、アニメは近代にしか存在してない(絶対してないとも言いきれないけどさ)し、登場人物の誰かと自分の過去のトラウマがかぶって見えたとかいうのでもないし、かつての名作アニメやウルトラマンや時計じかけのオレンジ(これも古い作品という感じはしないが)などの匂いをエヴァから嗅ぎとったことともまたちょっとちがう。
「みたことがある」=過去世、ではないとおもうんです。そこで見ているもの、感じているものは、過去ではなく未来かもしれず、過去でも未来でもなく「イツモ」のことなのかもしれないのである。そんな年月の指定のないデジャヴに包まれているときは、「自分」という感覚の強さがない。ナニナニ時代の何者でどんな性格をしていて、とかいうのは、あまり感じられない。無いわけじゃないが、どうであってもどうでもいいかんじがする。

そういやあ整体をしているとき訪れるやつも多少似てるだよ。「ここに病者はいない」感。ゾーンが生まれるのです。そこで不調に至った因果の網目をほとく。てな言い方だとなんだかオカルト治療をやってるみたいな説明になってしまっているけれど、実際は、私はただなんとなくさわって相手はなんとなくさわられて、ひょっとしたらなんとなく良くなる、そんなはなしです。とはいえ繊細な手は使われる。座禅も厳密な姿勢のとりかたがある。でもそれもまた結局には、パッと見にも心中も「絶妙にただなんとなく座っている」だけ、そうしてこそのものである。


平凡で固い姿勢と、エヴァンゲリヲンのようなブラーンとした姿勢をとったときと、座禅(結跏趺座で尻にザブを敷く)姿勢と、肥田式的姿勢によるときの「自分」という感覚は、それぞれ決定的に、或いはビミョーに、違いがある。次回はそれについて書こうか。








その2 カイタイ


と、前々記事では禅についてさも知ったように述べておきながら、私の雑念力はすごい。とはいえ、私はこうおもう。「座禅とは雑念を出すものだ」。そうです、封じるものではないのです。出たものは出す。

そしてその雑念はチカラを失ってゆきます。座禅をすると、雑念による行為というものが消化されるのでしょう。つまり、座禅をしなければ、雑念由来の行為に身体や時間を使うことになるが、座禅は未然にそれを消化する。あくまでも「カルマの封印」ではないところはミソなのではないでしょうか。


さて私は昨晩、仙骨周辺がチョー痛かった。悪性のものではない。新メソッドに強烈な効能があったのかな。今日はいくらか和らいでいるのは、テキヤのオッサンの気功のおかげでしょうか(笑)。
つまりこういうプロセスも禅と同じだとおもいます。人の仙骨は眠りまくっている。で、良い姿勢を「つくった」からといって、仙骨が目をさますわけでも正中心がキマるわけでもないのです。それでは「封印」に近い作業になっているからです。逆なのだ。姿勢をつくる(封じる)のではない。メソッドとはむしろ身体の解体作業である。







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