しかし座禅はとてもキモチイーといっても、甘ーいアマーい生クリームみたいな娯楽かといったら? たぶん違うけんね。
禅に限らずスピリチャルとか修行とか、仕事であれ何であっても真剣にあたるのなら、エササニ星で生きているわけじゃない私達地上の人間は、ワクワクオンリーで済むとは限らない。 禅病とか魔境とか浄化作用とか、そういうネガティブ的なものも通過儀礼のようにやってくるでしょう。でもだからといってその行をやめてしまったりはしない。それが姿勢。それが真剣。我慢ではないよ。
次回予定
「顔はヤバイよ、ボディやんな!」
「オシャ マンベっ」
「シンズリ」
結跏趺座(←けっかふざ。漢字合ってるか?)のような足組み姿勢で仰向けに寝ていると、とても気持ちいいことは以前から体感していましたが、あらためて、はじめて、結跏趺座について少し調べてみました。そして結跏趺座で座禅をしてみました。
…座禅てさあ、チョーキモチイイじゃん。こんなの苦しい修行とかそんなもんじゃねーよ。無念夢想なんて座ってれば勝手に訪れるじゃんか。聴こえてくる音は、膜がとれたようになる。
正座とは重心の位置が違ってくる。正座は「中心にいる」、結跏趺座は「中心に溶ける」的な?感じかな?物理的にいうと重心は胴体よりやや前に落ちる。
座禅て、草津温泉をかきまわすヘラみたいなやつで肩を叩いてますよね? 喝を入れるとかいうんですかね。あれにしたって、実は「活を入れる」ようなキモチイイものだと予感した。誰だ!座禅は苦行みたいなイメージをつけたのは。大麻が変な扱いを受けるようになったのと同じに、座禅は社会にとって都合の悪い感性を養ってしまうから、本質を隠しているのか?なんてね。
というかおそらくは、身心が固まっている人は逆にスッと座れないし座っていられないから、キツい行となってしまうのだ。禅が云う「三昧(ざんまい)」、これが重要だと私はおもうから、座禅で三昧を味わえないならこんなもん即刻やめて、マラソンでもオナニーでもすりゃいいのさ。だけど座禅で三昧を味わったらそのキモチヨサにハマッてなかなかやめられなくなるとおもう。
俳優の三上博史と漫画家の美内すずえさんの対談番組が、おもしろかった。
ガラスの仮面やアマテラスなどの超名作を描く人がどんな人なのか興味津々でした。面白い話をいくつもしていましたが、とくに印象に残った話を二つピックアップ。
いくつかの創作アイデアを絞りこむとき、頭で判断しようとしても、美内さんの胸の奥に子供の頃からいる漫画のカミサマがゴーサインを出さないかぎりは決定しないのだそうです。漫画のカミサマという言い方をしていましたが、私はそれは美内さんの「誠実さ」でもあるとおもった。
もうひとつ。作品についてあれこれ模索中、唐突に、脈絡のない画が浮かぶことがあるそうです。でもその画にはインパクトがあって、その画を活かすためだけにイチからストーリーを紡ぐことがあるらしい。そしてその画はのちに物語の名場面として評判になるという。
私はそれを聞いたとき思った。人は一枚か何枚かの、画を携えて生まれてきてるんじゃないのかなと。人生の喜怒哀楽や幸不幸のストーリーは、その画をその画たらしめるために、紡がれる。
そんな画を誰しも、胸の奥にしまってあるんじゃないですか?