顕在意識と、潜在意識や集合無意識などは「氷山」に例えられていますね。 水面上にあるのが顕在意識で水面下は無意識系だと。

今回のタイトル「真在意識」は私のいつもの思いつきの造語ですが、真在意識とは、意識の「密度の濃さ」です。真在意識が深まるということは、たとえば1秒という時間の中にある意識の質量が豊かになるということ。

それは「一を聞いて十を知る」みたいなことに近いですが、オツムの回転の速さだけを指すものではありません。感情の豊かさかもしれないし、ひとつのことに向き合っているときの純度の高さかもしれないし、スポーツでいうならボールや相手の動きが遅く見えたりする「ゾーン」状態かもしれない。
真在意識密度の薄い人からすると濃い人の行動や発言は、想定外だったりもします。濃い人のほうが心理戦や頭脳戦に長けているからというより、単に、薄い意識からは濃い意識が「みえない」のである。

真在意識は背骨の立ち方や動きに関係している。背骨がムチのようなしなやかさを持たず、ガクガクギクシャクした動きしかとれないのは、映画フィルムのコマ送りがギクシャクしたりコマ自体がところどころ抜け落ちているのに似て、「みにくくなる」。その背骨の持ち主の意識がシンタイ内外の情報をみにくくなるということである。もちろんその容姿もみにくくなってしまうが、問題は見てくれの容姿の体裁をとりつくろうことではありません。
頭で背骨を立て動かすのと、仙骨(というかシンキ)から立て動かすのでは、イシキの解放度や密度はまったくベツモノです。
頭からの操作には、感動がないのです。