その2 シンセイ

前回のつづき。


まず、「固い平凡な姿勢」については書くのめんどくさいから省略。ようするにツマラナイ姿勢全般だよ(笑)。

次。エヴァ姿勢。といってもいろいろあるが、ここでいうのはパイロットとシンクロ率が低いときの手がブラーンとして前屈みの姿勢について。あれは、チカラが憑依されるのを待ち受けている姿勢である。超リラックス脱力姿勢でもある。そういやあ最近みたことがあるな、あの姿勢…メイウェザーがやってたな。。

座禅姿勢と肥田式的姿勢の違いは、目にあらわれる。どちらも目の開き方の指図があるが、姿勢がとれれば自然とそうなるものである。その目から見える世界が、「自分」というものの感覚をもあらわしている。
ここまで書いてふと、今ここでこれ以上の説明はしたくなくなってきた(笑)。ぜひ 体験をしてそれを知っていただきたい。知っている人もいるだろう。


あ、ちなみに、以上のどの姿勢も、肩甲骨が胴体(肋骨)と癒着していては、とれません。前屈運動ですら、肩甲骨が弛んではがれていれば、身体はグンと曲がるし伸びます。パンチはもちろん体当たりにしたって肩甲骨を胴体に固めるものではないんではないかとおもいます。
「固い平凡な姿勢」も、肩甲骨を浮かすことで、かなり変わることでしょう。
あ、も1つちなみに、シンタイコウ動作「フェニックス」は、中間動作で、覚醒したエヴァみたいな姿勢をとります。







ゼンセイ

私は、前世とかの話は、自分がリアルに何か感じないかぎりは、話半分にしか信用しないけれど。

座禅を組むと、妙な感じになる。なんだか、「私はこの感覚を大昔から知っていた」といったような。前世で修行者だったのだろうかとおもったが、なんか少しちがうような気がする。仮にそうだったとしても、その過去世の思い出には限定されていないような、もっともっと原初の記憶である。

「いつか見たことがある」ではなく「いつもみていた」 そんな恒久的なデジャヴは、そういえば何度か感じたことがある。座禅で訪れる感覚と奈良の三輪山を訪れたときの感覚はソックリだ。部屋の外の庭と三輪山の風景の区別がつかなくなる。

私はエヴァを観賞したときもデジャヴ感覚がアリアリとあったのですが、アニメは近代にしか存在してない(絶対してないとも言いきれないけどさ)し、登場人物の誰かと自分の過去のトラウマがかぶって見えたとかいうのでもないし、かつての名作アニメやウルトラマンや時計じかけのオレンジ(これも古い作品という感じはしないが)などの匂いをエヴァから嗅ぎとったことともまたちょっとちがう。
「みたことがある」=過去世、ではないとおもうんです。そこで見ているもの、感じているものは、過去ではなく未来かもしれず、過去でも未来でもなく「イツモ」のことなのかもしれないのである。そんな年月の指定のないデジャヴに包まれているときは、「自分」という感覚の強さがない。ナニナニ時代の何者でどんな性格をしていて、とかいうのは、あまり感じられない。無いわけじゃないが、どうであってもどうでもいいかんじがする。

そういやあ整体をしているとき訪れるやつも多少似てるだよ。「ここに病者はいない」感。ゾーンが生まれるのです。そこで不調に至った因果の網目をほとく。てな言い方だとなんだかオカルト治療をやってるみたいな説明になってしまっているけれど、実際は、私はただなんとなくさわって相手はなんとなくさわられて、ひょっとしたらなんとなく良くなる、そんなはなしです。とはいえ繊細な手は使われる。座禅も厳密な姿勢のとりかたがある。でもそれもまた結局には、パッと見にも心中も「絶妙にただなんとなく座っている」だけ、そうしてこそのものである。


平凡で固い姿勢と、エヴァンゲリヲンのようなブラーンとした姿勢をとったときと、座禅(結跏趺座で尻にザブを敷く)姿勢と、肥田式的姿勢によるときの「自分」という感覚は、それぞれ決定的に、或いはビミョーに、違いがある。次回はそれについて書こうか。








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