さて今回は震災時の経験談をもう少し具体的に書きます

地鳴りが轟く茨城の海のそばで一晩、車の中で、私が欲求したのは、情報、食物。寄り添う人がいない寂しさも普通にあったと思う。とにかく行動している時は、これらのことは後回しです。でもさしあたって車の中で過ごすほかなくなって、さてどうしたものかとなった時、二次的にこういうことを欲しはじめます。

空腹については幸い少し歩いたところにあった超満員のコンビニで 売り切れ寸前の菓子を買えてしのいだ。

情報。FMラジオはしきりにリスナーからの「独りじゃないからね」「頑張れ」的なメールを読み上げるばかり。局がある方も混乱していて それを伝えるだけで精一杯だったのかもしれません。私には本当にどうでもいい内容のメッセージでした


しかし今思うに、何らかの具体的情報を知りたいという心理と、頑張れキズナと励まされたい心理は、どちらも同じではないかと。

情報を知って安心したいだけだったような気がする。目的が安心なら結局どちらも同じ。どちらかで安心して冷静になれるならどちらでも構わないことなのかもしれません。
そして結局肝心なのは、ギリギリの瞬間に必要なのはそういったことではないということ。

気象庁の会見や専門家の見解がありますけれど、瞬間の当事者にとっては、余震か本震かだとか阿蘇山との関連はないだとか、過去のデータが役に立つかどうかは、もうわからないのです

千葉の津波はあの日複数回ありました。1度来た大波が去ったあと、家を片付けに戻った人が再びの大波に呑まれてしまいました。 1度目の大波にさらわれた同級生は、何かにつかまって沖に浮いていて、2度目の大波で戻ってきたそうです。

正しい情報を求めてイライラしたりするのは避けるべきです。誰にとっても正しい情報などありはしません。あるとしたらそれは外側じゃなく自己の内側の静かな響きです。不安の響きよりも奥にあるほんとうのいのちの響き。