でまたそのまえにちょっと。




麻雀で最初に配られた牌(パイ)、それがたとえばボディワークなり修行なりを始める『自分』だとします。 大抵は、配牌の時点では組合せはバラバラです。そこからツモって切ってを繰返し、役を育て揃えていくわけです。

配牌は宿命です。配牌の時点で字牌(東とか中とか)が1個もないのに、字一色(ツーイーソー。役満つまり最高レベルのアガリ手)で上がろうとするのは無謀です。なんでかんで肥田春充とかみたいなカリスマになろうと鍛練し、目の前の牌つまり自分には目もくれないのと同じこと。

役満こそ狙わずとも、場の流れを見ずに読まずに、勝手に自分が頭で望むアガリ手を作り込もうとしても、ロクな結果をもたらしません。

場の流れ、とは『時代の空気』とかとはやや違うのですが、ここで何から何まで例えを書こうとすると長くなりすぎるのでそこは割愛。

で、役が揃ってアガるとき、『ロン』と発声します。ロンとは龍のことです。十四個の牌が整ったら、上り龍なのです。

ゲームが終わるまではそれを何度か繰返します。 揃わないときは何度もありますし、高い手でアガれるときもありますし、ヘマや失敗するときも、誰かに助けられたり助けたりするときもある。

麻雀が、ギャンブルとも将棋とも違うところは、非常にボディワークチックだというところである。『雀鬼』桜井章一さんは、麻雀は身体(姿勢)で打つ と言いきっているのだ。
でも私は若い頃よく麻雀してたけど、しばらくの間はギャンブリーな麻雀しかしてなかった。そして強くなかった。 だけど、ボディワークとの共通性を少し感じはじめてから、結構打ち方が変わってきた。あまり負けなくなってきた。でも以後、麻雀をやる機会がほとんどなくなり、さあ今からやっと面白い麻雀打てるようになってくるぞというところで終わってしまいました。 あー今これを書いててスゲー麻雀やりたくなってきた(笑)

そう、こんなウンチクより麻雀やるのが一番話が早いわけで、それはボディワークも全く同じ!。それに四人いなくても一人でもできる。



さあいよいよ、
次回予定、…




『ダイシンテンは忘れた頃にやってくる』のまえに。




仙道では、修行が進んだとき、神通力的な能力が色々と使えるようになるというが、それに囚われることを戒めている。 禅や瞑想も、深まっていくほど神秘体験が起き、ビジョンなどが見え、崇高な神の声を聴いたりとかするが、それは魔境と表裏一体である。


しかし、神通力が欲しい人や神の声を聞きたくて修行をする人なら、目的を達成したということになる。大金やツインレイが欲しくてヒキヨセメソッドや脳メソッドで成功を目論むことと同じことである。

私はおもうのですが、そこにとどまって満足したり、そこから魔境に突入したまま戻ってこない人というのは、ハナッからそうした資質の人であり、それを戒めようが何しようが、どっちこっちそこから先へは行かないような気がする。
よって優れたグルは、最初に資質(機根ともいう)を見抜くから、弟子とかを闇雲に受け入れず、世界を救済しようなどともしないのではないかとおもう。(※大乗仏教的な観点からすればまた全然話が違ってくるのかもしらんけど)。


でね、神通力とか魔境とかいうレベルじゃなくとも、治療術とか武術の力を発揮する世界でも何でも、チカラに呑み込まれるリスクってあるわけですよ。それに、その術を身につけ、スキルアップし、ほんとうのところ何がしたいのかっていうのは、それぞれ違うのです、資質が。

私自身のことを話します。過去にちょっとした瞑想神秘体験ぽいのを繰返していた頃、やがて思いました。『こんな体験してたって結局何にもならんわ!バカか!』ということを(笑)。
それに比べるとボディワークの成果っていうのはリアルで充実度が高いです。ですが、私がほんとうに望んでいることっていうのは、治療能力の高さであるとか、武力とかではないのです。権力とセフレなのです(笑)。 いやそれもまた違うのです。


本編『ダイシンテンは忘れた頃にやってくる』につづく





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