今日はなんだか姿勢が悪く、散歩をしてもガタガタとしか歩けないのだった。そしてダルかった。
肥田式肥田春充ならばこんな時は、有無をいわずしてズシャン!ズシャン!ズシャン!と下体をブチかまして、邪気を吹き飛ばしてしまうのでしょう。
だが、北斗の拳よりハレンチ学園、ラーメンマンよりカニベースを愛好してきた小生としては、少年ジャンプスな気力、持ち合わせておらん。烈迫の気合?ないないそんなもの。
そこでとった方法は、操体法的アプローチである。姿勢が、まるみたいならまるむに任せ、なおかつ、まるみに便乗する。
押してもダメなら引いてみな、引いてもダメならやめてみな、やめてもダメならやめてることもやめてみな。
引っ掛かりみたいなものが消えていく。腰は、反っても丸めても、猫足にはなれるし、氣は滞ることもないと、知る。身をもって。
シンタイコウの姿勢術は、時計の針を、綺麗に10時10分に揃えようとすることでなく、ムーヴメントの問題です。3時25分とかでも全然オッケー。中身が動いているならば。
4分33秒、何もしなくたって、何もしてないわけじゃない。
ソクラテスは、読書を批判したそうだ。おそらく、テレビを批判した数十年前の文化人や、ネットを批判する現代の私のような奴(笑)と同じことなのだと思われる。当時はまだ書物は書く人も読む人も成熟しておらず、たんなる情報文ツールの奴隷になることを忌み嫌ったのだろう。でも今では人間の自然な行為のようになっている。
だが、脳神経学によると、脳は『読む、書く』能力は遺伝しない。つまり人間は今でも、放っておいても勝手にソレをやるようになる生物なわけではない。後天的にひたすら学習を積み上げないとその神経ネットワークは発達しないのだそうです。
この能力を磨くことを選択しなかった民族の多くは滅びてゆきました。バカだから使えなかったのではなく、全く選択しなかった人達がいた。ソクラテスよりソクラテスな人達だったのだ。
さてネットを使えないもしくは使わない人は、これからはまともに生きてゆけないだろう。さて私はどうするつもりなのだろう(笑)
『さあ、ボクを消してくれ』
(渚カヲル)
シンタイコウは、ひたすら中枢へ中枢へと向かう。だから後天的努力、学習、筋肉の発達的なことを否定してきた。宗教的に言うならそれらはカルマでしかないと感じたからだ。肥田式的に言うなら、部分力を軽視というか蔑視すらしてきた、、しかしそんな行もまたカルマである。業である。ズレである。
それに、文でシンタイコウをうまく表現しようとする作業は、脳のアウターマッスルを鍛えていることに他ならないのだ。
なんというカルミーなブログであろうか(笑)。
バカシンジがセントラルドグマでカヲルを握り潰すまでの、あの、名シーン。