幽体脱力

幽体のリキミを抜きます。

願望実現系のスピリチュアルとかメソッドなんてものがありますけれども、その願望とは、一体、何から由来している願望なのかと問いたい。肉体の願望なのか、幽体の願望なのか、それともタマシイからの願望なのか、ってことです。霊主体従と幽主体従は違うものでしょう。ヒーリングとか祈祷の類いで幽体力らしきものを使っている人がいるようにおもうが、そうゆう力が強い人は『幽体マッチョ』である。アストラルマッチョ、メンタルマッチョである。

肥田式強健術の型には図らずとも邪気祓いのような作用があることとか、肥田春充さんがオカルトを嫌った(とはいえオカルト能力はあったが)のは、幽体力に主軸を置いていなかったからだとおもわれる。肥田式は観念を排除する。『想念エネルギーでできたような氣』などネチネチと練らない。真体功および私は、肥田式および肥田さんほどの、バッサリと竹を割ったような潔さはありませんけれども、目指すところのものは幽体由来の願望達成力などではありません。

肉体はもちろん、幽体のリキミをも抜くことです。肉体力にこだわると肉体のリキミが外せなくなるように、幽体力にとらわれると幽体がリキんでいることも認識できなくなる。中心力とは、フィジカルでもオカルトでもないレベルからの、フィジカルもオカルトも含むが、フィジカルにもオカルトにもとどまらない力である。





シンタリング 2

私は呼吸法はやらない、と前記事に書いたが、あえてやるとするなら、まず、当たり前のことを当たり前に認識してみる。
胸式はもちろん腹式呼吸であっても、物理的に息が入るのは胸。肺である。肺は左右セパレートにある。中央にはない。つまり、呼吸は『左右の肺』でしているのであります。漠然と胸をひとくくりに膨らませようとしていては、無駄にリキむことになり、深く呼吸できず、なおかつ頭がボーッとしてしまいます。きっちり左右の肺呼吸を意識化できれば、息は詰まりません。中心は空けるのです。カミの道だから。

ついでに下肚の中心の話もしましょう。
『天上から物凄く重い力でプレスされる』あるいはまた逆に『物凄く強く体を引き上げられるような力』に対するとき、全身でイキンで抵抗せずとも、拮抗力が生じる一点がある。そこが身体の正中心である。
ですが、その一点でイキむということでもないのです。とるべき姿勢をとったなら、正中心力は必然的に生じる力なのである。 中心は空けるのです。カミの道だから。


〜そこにもし努力があるなら バランスは無い。
(OSHOラジニーシ)


シンタリング

昨晩も夢合宿をしたようであるが、内容はすっかり忘れた。 けれど、目が覚めた瞬間、夢でなく現実の肉体感覚として、『まだ(落ちシロ)があるぞ』とかんじた。落ちシロ。 浅瀬でちゃぷちゃぷしているぶんにはこんなもんだが、深海〜地球の中心に落ちきるにはまだ姿勢が極まっていないという感覚である。

起床後、正座をする。私は呼吸法はあまりしない。腹式胸式等を問わず、意図的に胴体を膨らませるようないわゆる『大きな呼吸』は行わない。でも呼吸法『らしき』ことをしていることは二つある。1つは、姿勢にかかわらず足の裏と手のひらと口でする長い呼吸。もう1つは、姿勢をきめているとき、仙腸関節でじわじわと呼吸をする。 どちらも、肺や横隔膜運動は自然に任せる。
この二つ目の呼吸を正座 中に行う。

正座中は雑念が生じない。肥田さんの云っていたように、姿勢をきめれば機械的に思考は止むということは確かに実感する。思考したくなったら正座をほどくしかない(笑)。

落ちシロ。 それは絶望でも希望でもないところ。



夢合宿

イダ、ピンガラ、スシュムナーのそれぞれのセンのエネルギーの流れが明確で、『これだ、こうであれば何の問題もないんだよ』とかなんとか言いながら、非常にクリアー な身心を味わいながら、その状態を分析してた。 だが、大地震が起こり目が覚めた。

目が覚めた直後、大震災のときのことを思い出していた。茨城県の『神栖』にいた。ひどい液状化で市内中の水道がズタズタになった。神栖には『息栖神社』がある。鹿島、香取 とともに『東国三社』と云われる。両神宮のように巨大で有名ではないが、佇まいがよい社である。東国三社は上空から見ると三角の配置であるが、古代、もともと息栖神社があったという場所は今とは少し違うらしい。古代の配置だと、整った二等辺三角になる。神栖市はだいたいその中にある。

‥なんてことを回想してるうちに。シンタイの三つの通路のクリアーな体感が 、夢のときのようには全然無いことに気がついた。そのときの洞察も思い出せない。








『ほんま』という関西弁は正式な漢字のある言葉だとは知らなかった。本真に。

チャラ手が、なんだかチャラくなくなった。こんなかんじで動いたこと、今までない。奇妙ではあるが独特の身体作用がある。スワイショウともちがう。スワイショウよりもっと背骨にクル。


私に直接会いに来て、真体功式の強健術を見て、自分でもやってみて、ずいぶん啓発されるものがあったようで、後にでも報告をしてくれた方が数名いますが、それは私としても喜ばしいことであり、また、そりゃそうだろうさという、鼻持ちならない自負もある(笑)。だってどの肥田式簡易強健術よりキモチいいんだから。 心意六合拳と意拳の違いに似ていると表現してもいいのかわからないが、洗練されて地味な動作の意拳よりも、荒々しく伸び伸び動く心意六合拳のほうが体感しやすいものがある的なことと同じようなものかもしれない。 姿勢の中枢の扱い方は肥田式からの変更は無い。それは変更のしようがない。

私は、オーダーメイドをしているのだとおもう。全身全霊でオーダーをするのだ、宇宙に向かって。すると伝授されるのだ、術が。
肥田式やフラや氣功などなどの先人達のパターンのサンプルはあるけれども、そこからつい、オーダーせずにはおれなくなる。たぶん、体術じゃなくても同じかもしれない。たとえばマントラ(真言)を唱える修行とかをしはじめたとしても、出来合いのマントラをいつまでも律儀に唱えないような気がする。やってるうちに伝授されるマントラが出てくる可能性があるのである(あ、思い出した、そういえば、以前ちぶる整体を受けに福島から来てくれたかたが、来る前日に見たという夢によると、私の助手が、聞いたことのないマントラを唱えながらその人のコメカミに指を突っ込んだらしいが(笑)。そしてその夢を見ただけで楽になったらしいが(笑)。当時はパニック障害で悩んでらっしゃいましたが、その後はどうしていますでしょうね‥)。

もし、人にシンタイコウというものを正式に教えることをやるとしたら、シンタイコウのカタを教えることは『サンプルの提示』。しかし真の目的とは、その人が『オーダーメイドできるシンタイ』になることだ。
ちぶる整体を受けた場合だろうがシンタイコウを教わってやってみた場合だろうが、どっちこっち、自身の内側から啓発される感覚をなんとなくにでも知った人は、その喜び様がちがう。



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