シン技術

介護や建設現場で使える『パワーアシストスーツ』が進化しまくってるという。肉体原理を解明することで開発が進むのだろうが、私は逆にスーツの原理が知りたい。真体功のヒントになったりもするからだ。たとえば薬も同じこと。よく効く薬があるならそれを使いたいというよりもその効能の原理が知りたいのです。
諸々の技術の結晶には哲学が流れている。何をもって病気とし、何をもってチカラとし、何をもって時間だとしているのか等々の定義によって、あらゆるものがうまれる。脳と機械を繋いで不死を実現させる研究をはじめた人もいるそうだ、リアルマモーだ(笑)。当然私は不死の技術よりも、不死を望む人間が何をもって『生』『自分』と捉えているのかが浮き彫りになることのほうに興味がわいたりする。

シン ヒダハルミツ

肥田春充の幾多の書物の無数の記述(私は三冊しか読んでいないが)では、食事法やら運動法やらがこと細かにつらつらつらつら書かれ、正に当人が強健や聖中心の体現者でもあり、ほんと何もツッコミようがないですが、ちょっとだけツッコんでみたい。初老でありながら中身は青年そのものだと言いきっていた彼なのに、チンポの話が1つも出てこないことをだ。
『スズメチウチウ カラスカアカア』などと詠っていたが『チンポビンビン』が無いぢゃないか。
‥だがチンポだけ茅棒のままだったとも思えない。性へのエネルギーが、ほとんど別のものに昇華されているように感じる。そしてそれは禁欲したからではないようにも。因みに仙道では、精は漏らさないのではなく漏れないのだといいます。仏教僧の禁欲行とは訳が違うと言い放っています。同様に彼は苦もなく精を氣へ、氣を神へ、神を虚へ、還していったヒトなのではないでしょうか。

シン エヴァンゲリヲン 其の弐

セブンイレブンの入口のシンエヴァの垂れ幕を見かけたときの興奮状態と、正座中のピシリとした状態についての話。
修行世界では前者は『煩悩』というのかも知らないですけど、行者が座って悟りを開こうとしてるなら、それも煩悩だ。それこそムッツリスケベエだよ。 興奮してるときは正座に比べ、たしかに落ち着きがなくなるけれども、それを抑圧したところで何になるのでしょう。ガンジーのふりとかしてるヒマは私には無い。だいいち正座で修行など私はしていない。

目出度いというかオメデタイというか。

仰々しいかもしれないが、もはやボディワークというよりも、シンタイ功というよりも、なんだかまるで『奉納』をしているような気がしてきている。だってほんとうにシンタイをタテマツっているのだもの。もともと武道ではないから攻撃技とかっていうのもあるわけじゃないのだけれど、もし武道的におこなうとしてもそれは攻防ではなくマツリゴトになるようにおもう。 実に面白い。

シン エヴァンゲリヲン

とふとふ六月に公開だそうな。東京オリムピックより先に私のハートはストップモーション(by桑江知子?)。シンウルトラマンとやらも制作中らしいが、シンタイコウはシンカ中やど!なめんなコラコラァ。どーでもいいがついに携帯の画面が明るく光らなくなった。いよいよでせうか。目が疲れる。シンエヴァが『Q』のように終始暗い画面でないことを祈る。てゆうか私は劇場に行けるのだろうか(笑)
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