♪人生 序 破 ありゃ Qもあるさ
(水戸黄門的な。)
仙骨を立てて食事をすると咀嚼力が断然強くなることは以前から気づいてはいたが、それを習慣化することは今までなかったな。。
それはさておきここで「姿勢をきめて」とは言わず「仙骨を立てて」と表現するのには訳がある。姿勢をきめて、という言い方はなんだか仰々しいからだ。食事時に肥田式的な運動をするときほどの気合は要らない。フラットにスッと仙骨を立てて食べる。それ以上のことは何もない。
ひるがえって、はて。運動をするときだって「仰々しく」姿勢を決める必要など無いではないかよ。とあらためて思い、食事時の姿勢イシキと、静座中の姿勢イシキと、運動中の姿勢イシキを、丹念に比較観察してみました。
♪人生 真氣が 必要だ
(水戸黄門的に。)
すると。
姿勢術をするうえでも、とりたてて定着化させていなかったある1つのチッポケではあるが超重要な動作があったことに気づかされた。パズルのピースがハマッた。
半端ない脱力×半端ない出力=∞の力
これに当てはまる姿勢動作の数式は、まるでむつかしい知恵の輪のようでもある。どこか一点にかまけてばかりいると、全体が見えなくなる。
しかしまあ、知恵の輪がほとけたときのキモチ良さといったらないね。あ、私が∞の力を悟得したと言ってるわけではないです。脱力×出力=あっけなく強烈な力、の公式の解き方がより容易になりました、という話。
♪初めて逢った頃の気分になれるさ
(沢田研二、渚のラブレター)
強風が吹き荒れる海沿いの道を歩きました。
風は一方向からだけでなく、アチコチから乱れながら吹いてきて、ときに急激に突風のようにもなり、非常に変化強弱に富んでいました。そこで私はちょっとした設定を決めて散歩を楽しむことにしました。強風や突風に煽られてグッと抵抗するようなリキミで自身を支えるような姿勢動作をしてしまうならアウト。リキまずイキまず飛ばされず、どんだけスイスイ歩いていけるかを試しました。
なんか、推手の稽古っぽいよねとおもいました。合気とか。
で、もうひとつあらたまって実感したことですけれども、それは、身体動作の基点、重心、それらはやはり、下丹田ではありませんよ。ということである。全然ちがいますよ。
人には「タイプ」があるのでしょうか? 身体運動において、下丹田を据えるのがベストな人や、そうでない人がそれぞれいるのでしょうか。
しかし人体の構造は誰でも同じであります。
「脚」とは、下丹田よりも上から下丹田よりも下へと生えているものなのである。大腿筋や大腿骨が脚の上端なのではありません。強風で吹き飛ばされそうな身体をリキむことなく支えている「脚」の付け根は、横隔膜のすぐ下である。下丹田あたりは、たとえるなら「水を貯めた袋」がぶら下がっている場所、のような感覚である。その袋を吊るしている(括っている)場所は、下丹田より上からある脚なのである。
文章で説明してもわかりづらい話かもしれませんね。まあとにかくですね、下丹田を鍛えるワークなどを継続しているけれど違和感や無駄感を感じている人がいたとしたら、私がその正体を教えてあげられるかもしれないね。そのテの鍛練をしていてもモノにならないのは、貴方の努力不足とかのせいではない可能性があります。なんなら即刻その鍛練法は辞めてもいいのである。なぜなら貴方にとっては全くやるべきではない鍛練法かもしれないからである。
ところで綾瀬はるかと深田恭子では、どっちのほうがイイ女だろうかと、少し今悩んだのですが、一センチでもケツがデカイほうに軍配を上げようとおもいました。なんでどっちかに軍配を上げなければいけないのか。よくわかりませんが。
当地域では今回の台風では20時間程度の停電の他に目立った被害はなさそうでした。
生命はますますこれから、揺さぶられていくようにおもいます。 庭の木々の葉や花の散りかたや咲きかたは、てんでバラバラです。今回や前回の台風の表面的な影響だけじゃなくて、根本的に?各々が季節を勝手に判断し勝手に散ったり咲いたりしているように見えます。
あらためてかんじているのですが、私は、「タフな身心」を作り込むようなワーク、修行などはしていない。ここで云うところのタフさとは、ニブさと背中合わせのチカラを指します。
若い頃(太極拳を習い始める前後)私はヤナギのようになるのが目標でした。そして今は、肚とはヤジロベエのようなものだと感じている。ドテッと質量豊富的に腹が据わったような強さの感覚は私には無い。諸々のガードは削ぎ落とされ、地に触れる確かな一点を研ぎ澄ますばかりなのである。
それは心もとないチッポケでわずかな点というわけではありません。「確かな点」 です。私は、これしか要らなかったのだ。じつに、整体術や武術の名人になろうなどとも考えちゃいないのだ。
この確かな一点から外れていなければべつに何がどうなったって何もかまわない。
肚を鍛えることってのは、男らしさを磨くというより、むしろ逆のことであった。
肚、腹を据えるというと、武術だったり、昔は女人禁制だった禅などの修行であったりしたため、オトコらしさ的なものと勘違いしやすい。だが、どうやら、なんかちがう。どんなに少なくともワタシの今のタイカン&リカイはソレとはぜんぜんちがう。だから私は肥田さん云うところの「やってやってやり抜けろ」的なメッセージは逆に萎えてしまいます(笑)。貪欲にエクスタシーに没入する女性みたいに「キテ、キテ、モットキテ」なんだ、シンタイコウは。
では肚とは女らしさか。そうゆうことじゃないです。白か黒かじゃないのです。
一般的に言われる「強くなければ優しくなれない、やさしくなければ強さじゃない」的な人生訓的な、他人に対してどうすべきかという話ではありません、もっと内側の、存在の質を問うはなしであります。
インナーチャイルドやシャドーを癒すといったような作業と、肚を養成する修行は、別々のものではない。ハラを鍛えて弱い自分をブッチギルとか、あり得ないです。ハラとハートは別々に扱うものではない。
シンプルに身体ワークだけにフォーカスしても、下体は強くて上体は固いとか、その逆とか、そんなんではツカイモノにならないのである。
上体(ハート)は下体(ハラ)のエネルギーをコントロールするのではなく、許容、包容する。ハラはますます立ち上がる。
♪ヒトにやさしく してもらえないんだね
僕が言ってやる デッカイ声で言ってやる
って言ってやる
聴こえるか
(ブルーハーツ、ヒトにやさしく)
久し振りに整体施術をしました。
手は当てずに。かざさずに。
野良猫に(笑)。
手も触れないで行なったことを「整体」といえるのか?と不審におもう方もいるでしょうが、一応私の中での「ちぶる整体」の究極形に近い作業だったので、整体、と表現しています。
なおかつ野良猫って‥と思う方もいるでしょうが、ヘタすりゃ頭の中が何らかの思考で一杯のヒトよりも、直結できるものがある。
ちなみにその猫は、普段なら全く人に近付きません。
簡単にいうと私はただ座って大周天的シンタイコウをしていただけなのですが。何もしていなかった、ともいうのですが。
そこへ通りすがりのノラが立ち止まり、ジーっと私を見つめ、行こか戻ろかとモジモジし、自身をペロンペロンして落ち着いたあげく、家の中でリラックスする飼い猫のような佇まいで私の目の前に座り込みました。
私がそこで調子こいて近づこうものなら、ダッシュで逃げただろうとおもいます。きゃつは伊達に野良やってるわけじゃない。家猫とは全然ちがう世界を生き抜いておる。ノラも私も、馴れ合おうという意志は無い。互いのパーソナルスペースは崩さない。それでも通じるものがある。
それってたまたまのナニカシラなんじゃね?とおもわれるかたもいるかもしれません。そうかもしれませんね。あなたの思考では、ね。
♪もしも僕がいつかキミと出合いはなしあうにゃら そんなときはどうかあいのイミを知ってください
リンニャリンニャー