99%のどうでもいい力と1%の決定力

整体の学校に行っていたとき、解剖学の授業で、頸椎について学んでいました。私は手を挙げて質問しました。「なんで頸椎一番はそんな形をしてるんですか?」

先生は人体構造上の都合的な解説をしてくれたのですが、私がつい口に出した質問は、「お母さん、ボクはどこからやってきたの?」というのと同じ質の問だったのです。先生は「コウノトリが運んできたのですよ」でなしにオマエのトウチャンとカアチャンがセックスをして孕んで出てきたんだよ的に教えてはくれたのですが、私の疑問は(セックスって何?何でセックスしたの?何でセックスをするとボクが生まれるの?何で?何で?)とエンドレスに続く疑問でした。それを察した先生は「哲学的な質問にはここでは答えようがないなあ…」といい、私もそこでハッとして「そうですね」と返事をして終わりにしました。

こないだ、坐禅の脚の組み方は左右どちらが上か下か(降魔坐、吉祥坐というらしい)、ではどっちだったら何なのか?について調べたら、釈迦が悟りを開いたのはどっちだとか禅宗ではどっちだとかいうウンチクは出てくるのですが、なんか、知りたいのはそういうことじゃない。もういいやとおもって自身で調べることにした。すごくいろいろなことがわかった。一番よくわかったのは「どうでもいいからやってみること」ですけどもね。


次回予定
「頸椎一番と宇宙と地球と仙腸関節とチンポウとマンコウの擦り合わせについての考察、なんてどうでもいいからやってみろよ」






シンタイコウ千葉北東本部より、祝辞。

こんばんは。 先ほど、あっぱれ正中心を見に行ったら最新記事が出てました。中心練修会 千葉北西支部を中澤さんが立ち上げた。おめでとうございます。

ガラケーからも一応ホームページが見れました(写真は見れないが)。中澤先生の目指すところが文からよく伝わりましたし、地道にしっかり身体と向き合う場になりそうなところが、いいなーとおもいました。
それに、私がちぶる整体を開業したときとは比べものにならないほどちゃんとしたプロデュースでした(笑)

中澤さんは中心練修会本部では熱血指導員だそうですが、おそらく親身なのでしょう。そして本気なのでしょう。それが支部のカラーにもなるのでしょう。


私は東京でちぶる整体をやっているとき「来れるもんなら来てみろよ」的な?スタンスで見事に失敗しましたけれども、それって、方法の問題じゃなくてやっぱり「姿勢」「キモチ」なんだとおもいます。中心練修会は閉鎖的な会ではありません。私も改心したら中心練修会千葉北東支部の設立申請をしようかとおもいます(笑)


あっぱれ正中心経由でなく当ブログを見ている人が何人いるのかわかりませんが、ボディワークに関心のあるかたはどうぞ中心練修会をお見知りおきくださいませ。









それは、俺の、自由だ。

久しぶりに新聞紙を突くエクササイズをしました。

今までは普通の握り拳でしかやったことがありませんでしたが、今日はなぜか集約拳でやる自分がいました。 破れる感じに違いがありました。拳先がやや尖っているからというよりも、他の理由があります。新聞紙を貫通するときの前腕の感覚が違います(握った時点で違うけどさ)。普通の握り拳だと前腕は空洞のパイプ、集約拳だと芯の入ったパイプで突いたような感じ。身体そのものもそのような違いがあります。だいぶむかしに柳生心眼流柔術を習っていたときはサッパリわかりませんでしたが、この握りで当てるのは、拳というより身体そのものなんですよね。


さて今回練習で確かめたかったのは、拳というより胸、中丹田、ハートについてのことだったのですが。卵(肋骨)を割って中身(重心、氣、或いはワダカマリ)がボトンとハラに落ちる感覚を、具体的な動作、具体的なチカラに現したらどんなもんなんだろうというような思惑で久しぶりに新聞紙突きをやりました。その思惑が、はからずも集約拳を握らせたことは注目に値しますけれども、私は、「胸のすく」感じをとらえたかったのです。


格闘技で実力がハイレベルに拮抗した者同士が闘うときなどに、人を倒す行為をするとはいえ、また、競技のプレッシャーがあるだろうに、爽やかな身心になっていそうなケースをたまに見かけます。柔道女子の、名前忘れちゃったけどオリンピック2連覇した人、ヤワラちゃんじゃなくて、もっと重量級で、一本勝ちした人。あの人、決勝で闘うとき、ニコニコしてたよね。喜びが滲み出てた。
ボクサー長谷川穂積の十何回目かの防衛戦も。長谷川選手、愉しそうだった。負けちゃったけど。
あと小説なんだけど、リュウケイイチロウの、タイトル忘れたけど、主人公と盟友のジイサンが、最後、決闘するシーン。ジイサンが刀を抜いて「さらばだ、清さん」とか言うんだよね。なんか俺、ボロボロ泣いちゃったんだよね、その清々しさにね。

小説で泣いたといえば、村上龍の「半島を出よ」。最後のセリフ読んだときはもう号泣しましたね。カタルシスとはこのことかとおもいましたね。私はそれまでカタルシスとハルマゲドンの区別がついてませんでした(笑) クライシスとカタルシスとハルマゲドンが混じっちゃってたんだろうね。パルプンテとかもね。

ふと今おもいました。ちぶる整体じゃなくてパフパフ整体とかホイミ整体とかべホイミ整体とかベホマラー整体とかベホマ整体とかベホマズン整体とかいう名前にすりゃよかった。私はドラクエとマザーはハートフルだから大好きでした。でもファイナルファンタジーのことディスっていいですか?俺ああゆうの大嫌い。それと、♪なんとかだウィー、とか♪なんちゃらなのすゎ〜とか唄う歌もキライ。そんな歌いかたをする歌手は信用しねえ。


マザーの最後のバトルも超感動しましたね。俺ね、聖中心て、実は中丹田なんじゃねえの?ってすら、おもってる。










本性のボディワーク、シンタイコウ。

高い所から落ちたり、袋小路に追い詰められて万事休す、みたいな夢を見たとき大抵のヒトはハッと目をさましますけれども、そんな反射的本能的反応と身体のリキミやブロックは関係していまして。
自分で認識できないリキミは、自分が生きる上で当然の活動であるとの如くに、身心に染み付いてしまっている。


昨夜、バックベンドラゴンロール動作がまた進化しました。
この動作が出来るか出来ないかは深層筋に関係していますが、深層心理にも関係しています。ヒトは後ろに落下することに反射的に抵抗するものである。そこで普通は必死でリキむ。結果全くこの動作ができない。しかし程よく脱力するコツがわかれば一応は出来るようになる。しかししかし、出来たからといって動作を極めているとは限らない。さらにこの先に進むか進まないかで、それが健康体操やダンスなのか、そうでないのかは変わってくる。

肥田式簡易強健術だって実は同じことなのですが、あの確り立っておこなう動作が、往々にして逆にゴマカシに使われる。「確り立つ」の種類、意味が違ってきたりするのである。準備動作からして「確り立つ」種類を履き違えていれば、本動作ではチカラを置きにいくことしかできません。
しかし、ここで言ってることは、あくまでも私が求めていることであって、腹圧や表層筋力を鍛えるための運動をすることが間違いだとまではいえません。むしろ身心が弱いなら強くするのは当然です。
ただ私自身は、恐怖の克服のために「いろんなものをたくさん身に付ける」手段はとれないというのです。

こないだまでのレベルのバックベンドラゴンロールは捨てた。身に付けていた「恐怖対策」を捨てたのだ。するとより身軽に、蛇がのたうつように回れるようになりました。それにはコツがあるとか深層筋力は絶対的に必要とかっていうことはあるのだけれど、深層心理が恐怖でリキンでさえいなければ、こんなもんはただ「身体を回すだけ」のはなしである。蛇がのたうつのに「のたうちかた」の練習などしないだろ。でも私達はヒトだから、学習して能力を身に付ける生物でもある。ですが、AIではない。生物なのだ。生命の記憶は内側にあるのです。その記憶に「本能的恐怖」もプログラミングされているのでしょう。なんてこった。しかしそれは原初の生命本能には存在していないものかもしれませんよ。私はこれからもシンタイコウで、それをたしかめる。


震災から8年経ちました。ウチの下の、津波で崩壊した海岸線には高い防波堤が立ちまして、道からは海が見えなくなりました。







生粋のボディワーク、肥田式強健術。




おぇーっ。

こんにちは。かなりえずきです。



肥田式の「呼吸の加速度的落下」を表す図がありましたね、扇状のね。 私は昔から、(なんか違くね?これ)とおもってました。私は、図で表すなら線香花火の形だろうよと感じてました。ですが、今朝、30年近く経ってやっと、やっと、やっと扇状の図を体感しました。なんという愚かさでしょう。でもわからないものはわからなかったのだ。そして今わかった。それでよい。

昨日、腰で腰を入れるというよりも、鳩尾辺りから下がる棒が仙骨を内側から圧迫して腰を反らす感覚が強くあったのですが、それが発展して、扇状の体感になりました。しかしこの形は、漠然としたイメージ図ではありませんね、腸腰筋を示唆していますね。

では私のそれまでの線香花火的な体感とはなんなのか、それは間違いなのかという話については、興味ある人はいないような気がするので、別の話にすりかえます。
肥田式の「呼吸停止三秒」と、大周天の「呼吸はしなくなる」という状態についての話に。

肥田式は時間を凝縮した鍛練なので、チカラの加速的落下とかカカトからの反発力とかが特徴ですが、呼吸停止三秒というのもそのひとつだとおもいます。凝縮運動でなければ、呼吸停止は三秒でなく、もっともっと長い。

呼吸停止とは、呼吸をしなくなる、とは、ゼロ、色即是「空」である。
呼吸は「色」即是空である。呼吸は「するのか、それともしないのか」ではないのです。

肥田式の呼吸停止三秒と、大周天の無呼吸は、違うものではない。三秒の空は、シンタイコウ動作「ニルヴァーナ」で時間や空間が消えるような状態の、圧縮バージョンといえばいいのでしょうか、爆発バージョンといえばいいのでしょうか、とにかくイッキである。呼吸を三秒止めるというよりは、呼吸は、三秒、止まる。その三秒間は、硬直した三秒間ではない。



次回予定
「ゼロかイチか、オールかナッシングか、デスかグローリーか、ではない。ヒトとAIの決定的な違いは、これなんじゃないですか」
「蛇はアダムとイヴに林檎を食べさせてくれた」
「椎名林檎と泉ピン子は似ている。どっちもアリだとおもいます(性的目線)」







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