デス&リバース 肚和人(ハラトンチュ)新生

♪おお友よ、このような旋律ではない!
もっと心地良いものを 歌おうではないか

(ベートーベン 交響曲第九番 第四楽章)




真体功っていうのは、一般的な運動神経を養成するものではないし、運動神経がいい人なら出来るとかいうものでもない。むしろ、なんらかのスポーツが得意な人ほど、その運動神経を手放せないばかりに、出来ないものかもしれない。「筋力」も同じ。

それから、運動がそもそも嫌いですという人がいます。でも、そういう人はもしかしたら、前述のいわゆる一般的スポーツ的筋力的運動が嫌いなだけかもしれないのです。歩くのだって嫌いですという人もいるでしょう。それももしかしたら、単に疲れる歩きかたしかしてこなかっただけかもしれないのです。
いや自分はとにかく絶対どんな運動も嫌いなんだという人もいるでしょう。そこまで言われりゃ、へぇ としか言い様がありません。

今年の流行語大賞のノミネート語の1つに「筋肉は裏切らない」とかいうのがありました。筋トレのスローガンでしょうか。へぇ としか言い様がありませんが、そういう人はそういうのが心地いいのです。

私の直観は、絶対に私を裏切らない。それはきっと誰でもそうだとおもいます。

自分はとにかく自分自身が嫌いなんだという人もいるでしょう。それはたぶん、その人自身の真体功を見失ってしまっているだけだ。



次回予定
「THE end of EGO -真心をハラートに-











そのフィフスチルドレン、最後のシ者につき

♪ミミファソ ソファミレ
はれたる あおぞら
ドドレミ ミレレ
ただよう くもよ


歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ。 (渚カヲル)


69はいいね。69は僕の生まれた年だよ。(俺)
真体功はいいね。真体功は、そこまでのリリンの生み出したクモのイトだよ。


また1つ、いつぞやに見た夢(白昼夢的なビジョンだったか)を思い出した。渚カヲルみたいに、直立したまま宙に浮く夢でした。その夢には体感が確りあって、私は仙骨を操作して浮いたようだった。

重力からの解放とは、重力を忌避することではない。そこにありながらもそれにとらわれていない状態です。理屈はともかく、そうなればわかってくることなんだけどな。
スポーツ選手の「ゾーン」は、極度の集中の果てにシフトが訪れて、「入る」「降りてきた」などと表現されていますが、シンタイコー的ゾーンの場合は、極度の弛緩の果てのシフト、そして「真氣通貫」する。



次回予定
「その369 終わるブログ」

「その0 シンタイの中心でアイを叫ぶケモノ」












そのフォース ブッぱなす

今年の春頃から、海岸で、小銭を拾うことがやたらとあるのですが、いつも大体同じ場所。そこで誰かがやたらと金を落とすわけでもないだろうに。風雨にさらされ黒ずんだ硬貨ばかりです、今日も二百円。で、なんだかだいぶ昔に見たことがある夢を思い出しました。砂を掘ったらワサワサと小銭が出てきた夢。それと光景が似ていることに気がついた。

そして、さらに昔の幼い頃、熱を出して寝込んでいたときに見た夢をまた思い出します。遥か彼方に見える小さな粒が、光速のような速さで近づいてきて、それは超巨大な石?で、あっというまに視界を覆いつくしました。その後はどうなったか覚えていません。

隕石で滅んだときの、生命のDNAの記憶?なのでしょうか。よくわからんけど。


少し前の記事に、ほんとうの姿勢がとれると、過ぎていく時間の今じゃなく全ての今に立つことになる、といったことを書きました。マインド、スピリット、ボディが「一氣通貫」すると、自我による自己のコントロールというのは自動で手放されます。その状態では、ズレというものが消失するので、時間というまさにズレの象徴も、なくなる。 現実的には地球は回っているだろうから、時空が完全消滅しているわけじゃないし、私もここにいるし、気が狂ったわけじゃない(笑)。おそらく、引力に乗ることと重力に乗ることの二重性の問題だ。
これは、ハラ腰を鍛えるということと超脱力によって自動で直立することに、矛盾があるわけではないことにも関係している。

ふつうだと例えば、吸気=緊張=交感神経優位、呼気=リラックス=副交感神経優位 というような、陰陽の法則性がある。でも、一氣通貫した身心では、こちらを立てればあちらが立たず といったようなシステムにも、束縛はされないのである。


次回予定
「そのフィフスチルドレン、最後のシ者につき」








その3 ブッつながる

レットイットビーの無いレットイットゴーは、ボディフルネスでいうなら、重心の落ちきらない中心軸の定まらないただのヤブレカブレ運動である。

それではうまくいかないと知るのもボディフルネスである。だが、それでうまくいく場合だってあるだろう。ここでいう うまくいく とは、ちょっとした「テク」を身につけてしまえる場合のことである。


つまりそれは、プラトーの回避っていうか、プラトーからの逃避である。結果をだし続けてナンボの競技者ならいざ知らず、「道」を歩む者ならば、レットイットゴー&テクは、脱線である。

たとえば格闘技的な武道の流派なら、そんな流暢なこといってて負けたらどうすんねや、武道は負けたら死亡なんやで、ということにもなるでしょう。たしかに死活問題だ。たとえばマッサージ業界なら、客が沢山ついてナンボ。医薬品なら、治ってナンボ。しかしながら、道は、ナンボの世界ではなく、チンポの世界なのである。

輪廻転生っていうのは、自分が何度も生まれ変わるとかいうことではないとおもう。脳科学っぽい言い方をするなら、生命の情報が再生されるとかアップデートされるとかいうことである。こないだ、AIのディープラーニングの仕組みの図を見ていておもいました、受精の仕組みに似ていると。無数の失敗があってのたった1つ出てくる回答 。
私達はそうして生まれてきたわけですが、それをポジティブに見るなら「生まれただけで大成功」といえます。ネガティブ(マイナス思考という意味ではありません)に見るなら、私達は、失敗するために生まれてきたのです。生命として、たった1つある回答のために、大概の失敗をして還っていくのです。

これはもう一般的な成功失敗の感覚に当てはまるものではありません。
不幸であれとかいう話でもありません。
なんだっていいのだ。
根本生命には成功しかないんだから。









その2 ブッ生きる

生と死は同価値なんだ

(渚カヲル)




肉体を離れたあと、どうなるのかは私はよくわかりません。が、ここでは一応、肉体の消滅=すべての消滅ではないと仮定しての話をします。


肉体とともにある生存期間が、そもそもぜんぶ「プラトー」であるといえるかもしれないのです。

昨夜、TVで、動物の解剖研究をしている学者さんが、「二足歩行は生物の身体進化としては失敗作だとおもう」といったようなことを言っていました。理由の第一は肉体にかかる負担、第二は脳が発達したことによる心理ストレスを挙げていました。

そもそもそういう考察をすること自体、ヒトの特徴ですけれども。その学者さんは二足歩行が失敗の進化だと本気で言っていたのか、それとも視点を変えて世界を見てみようよ的な示唆的なニュアンスを込めての発言だったかは、定かではありません。ですがなんであれ動物身体の研究が心底楽しそうではありました。これ重要。

さてその二足歩行をするヒトの身体の特徴的パーツは、脳のデカさと骨盤の形です。TVでも比較紹介されていましたがヒトの骨盤は、まるい のです。ワーゲンバスどころかビートルです。ハートマークっぽくもあります。仙骨はセントラルドグマに磔にされていたアダム(実はリリス?)の顔です。渚カヲルはセントラルドグマでは宙に浮いたのです。ロンギュヌスの槍は胸に刺さっておりました!そしてインパクトの発動でリリスは、妊婦もしくは肥田さんもしくは三宅さんのようにハラが膨れ、脚が生えたのです!…私はエヴァの話になると暴走してしまいますので、なんとかここで一旦話を止めます。休憩


プラトー。


再開。
とにかく、二足歩行や苦悩する生物ヒトは、進化における失敗生物なのではない。
「ヒト・ザ・プラトー」なのである。

手をこまねいて闇をさまようだけが宿命とは、限らない。
ヒトは手が使えるというのはすなわちハートが使えるということであります。そしてほんとうの姿勢で直立できるということは、「時間の今」だけじゃなくすべての今にも、在ることができるのである。「時間の今」にしかいられない肉体とともに居るにもかかわらず!。
不自由と危険と自由が共存するあのバイクってゆう乗り物に乗ってるときにも似てます。
上等じゃねえかよ。







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