もともと「食」にはわりと無頓着でありましたが、カスミだけで生きていられるほどの進化はしていない(笑)ため、少なくとも一日一回は腹が減る。
だが、食物を腹に入れると身心は鈍くなるのを如実に感じるようになった。玄米菜食などは、そのギャップが少なく済む食事ではあるとおもう。


菜食「主義」なるものは、腰反り姿勢「鍛錬」とか座禅「修行」などと同じで、それらをやっている人がすなわち健康であるとか強いとか偉いとか悟っているとかいうことにはならない。その野菜やその姿勢が「自分自身」にはなっていないからである。自我が玄米を喰らい、自我が背骨を真っ直ぐにしているならば、肉を食い猫背でいることと質的に違いは無いのです。玄米や良い姿勢を求めるのは身体のシンプルな欲求や真心であって、思想の命令ではないのである。超人や聖人になりたいエゴの目録ではないのだ。

修行や菜食をやろうという意志を全否定するものではないが、本気でそれに取り組むならば、たいてい、「危機」がおとずれるでしょう。転換期ともいえます。これについてはまた別の機会に書く。

植え付けたスピリチャル「知識」ですとかスピリチャル「想念」と、「本音」が一致していない人なんていくらでもいるとおもいます。本音と主義がマッチしてなけりゃあ、なにも根付かないのです。これがスピリチャルセミナージプシーとかいう人達があふれかえる理由だとおもいます。社会の正論に違和感を覚え、スピリチャルに傾倒していくものの、こんどはスピリチャルの正論に堪えられなくなります。

では、どれにもマッチできないその人がイケナイのでしょうか。根性なしのワガママなのでしょうか。

そうではありません。
そうではないのです。


つづく