生と死は同価値なんだ

(渚カヲル)




肉体を離れたあと、どうなるのかは私はよくわかりません。が、ここでは一応、肉体の消滅=すべての消滅ではないと仮定しての話をします。


肉体とともにある生存期間が、そもそもぜんぶ「プラトー」であるといえるかもしれないのです。

昨夜、TVで、動物の解剖研究をしている学者さんが、「二足歩行は生物の身体進化としては失敗作だとおもう」といったようなことを言っていました。理由の第一は肉体にかかる負担、第二は脳が発達したことによる心理ストレスを挙げていました。

そもそもそういう考察をすること自体、ヒトの特徴ですけれども。その学者さんは二足歩行が失敗の進化だと本気で言っていたのか、それとも視点を変えて世界を見てみようよ的な示唆的なニュアンスを込めての発言だったかは、定かではありません。ですがなんであれ動物身体の研究が心底楽しそうではありました。これ重要。

さてその二足歩行をするヒトの身体の特徴的パーツは、脳のデカさと骨盤の形です。TVでも比較紹介されていましたがヒトの骨盤は、まるい のです。ワーゲンバスどころかビートルです。ハートマークっぽくもあります。仙骨はセントラルドグマに磔にされていたアダム(実はリリス?)の顔です。渚カヲルはセントラルドグマでは宙に浮いたのです。ロンギュヌスの槍は胸に刺さっておりました!そしてインパクトの発動でリリスは、妊婦もしくは肥田さんもしくは三宅さんのようにハラが膨れ、脚が生えたのです!…私はエヴァの話になると暴走してしまいますので、なんとかここで一旦話を止めます。休憩


プラトー。


再開。
とにかく、二足歩行や苦悩する生物ヒトは、進化における失敗生物なのではない。
「ヒト・ザ・プラトー」なのである。

手をこまねいて闇をさまようだけが宿命とは、限らない。
ヒトは手が使えるというのはすなわちハートが使えるということであります。そしてほんとうの姿勢で直立できるということは、「時間の今」だけじゃなくすべての今にも、在ることができるのである。「時間の今」にしかいられない肉体とともに居るにもかかわらず!。
不自由と危険と自由が共存するあのバイクってゆう乗り物に乗ってるときにも似てます。
上等じゃねえかよ。