肚の剣に従って姿勢を取っていると、その姿勢は合気道養神館の人達が取る姿勢に似ているように感じていた。 が、ブログ「あっぱれ正中心」を見ていたら、三宅先生の「突撃の型」の写真に目がとまり、(なんだ、結局こういうことやん)とさらに腑に落ちた。突撃の型の存在など私はほとんど忘れていたが、まあ、そういうこった。

思えば、30代の時に太極拳的な氣感を得たときでも、肥田式は難しいと感じた。なんだか別世界のものというか、純度が高すぎる術だという気がした。が。もう別世界のものではなくなった。

さて今。こういうことが言える。 「氣」には二つ(あるいはそれ以上かもしれないが)のレベルがある。
1つは、練ったり回したりして養ういささか物質的というかエナジー的な氣。これ1つの中にもレベルがあろうけれども、これとはそもそも違う質の氣がある。それを私は「真氣」としている。

「氣」によって治療や健康法や武術は出来る。「真氣」によったって出来る。 しかし「真氣」からすれば、治療とか健康とかチカラというのは、ただのオプションに過ぎない。


真氣はツールやスペックではないのである。



肥田式には「聖十字呼吸法(姿勢法だったっけ?)」というのがあったが、あれも私はとんとやってきていない。が、 寝ていても肚剣に従ったとき、必然的にあの運動に似た動作に導かれるのであった。

そして、肥田式の「聖中心道」といわれる領域の運動法もまた、スペックにはなり得ない。


スペックになり得ないメソッドは、ポピュラーにもなり得ない。


オリコンチャートで価値を測る類いの音楽ではないのである。