大人の成長期

私の身長が数年前に2p程伸びたのはなぜか、という話。


伸びた場所は脚ではなく胴(肚腰)ですね。ズボンの裾は上がっておらず、Tシャツの裾から腹が見えるようになりましたから(笑)。

腸腰筋が伸びてる。つーか腸腰筋が立ってると言ってもいい。
流行りのインナーマッスル運動をしたわけでもない。
その頃、何か変わったことを私はしたのか?振り返ってみますた。

私は確かその頃、肥田式的な、下肚をどうこうする運動を疑問視しはじめていた。運動の起点は下肚じゃない、上肚(大腰筋の最上部相当)だと感じるようになっていた。下肚(骨盤)や脚は、ブラブラさせていた。

下丹田あるいは腸腰筋の下部などで身体を支えるのではなく、腸腰筋の上部から半身をブラ下げるようになったというわけです。するてえと、なんだか真っ直ぐそしてチョコンとそしてグインと自分が『居る』ような感じになった。


ちなみに上肚は腎臓にも関連している。

Wikipedia的な説明では腸腰筋は、『唯一、重力から身体を守る筋肉』とされています。私的な体感では腸腰筋は『身体が担がれた神輿のように在れる筋肉』です。

重力の抵抗を従来よりも受けなくなったから背が伸びた、ともいえるのでしょう。


しかし、体運動のさせかたを変えたというだけが身長の伸びた理由だと限定するわけにもいかないもう1つの理由もあります。一ミリずつジワジワ伸びたって感じではなく、東京で『ちぶる整体』を開業するにあたって行動しはじめた頃、急激に伸びたようなのです。なにやら、精神的なことは大いに関わっているかとおもわれる。

私は、けっこう根本的に『存在のしかた』を変えたんだろーね。
だから整体師に伸ばしてもらった身長みたいに、元に戻ったりはしないのですよ(笑)。







ゼンのリアリズム

禅のことを調べていると、やたら四字熟語が出てくる。私はおもう。和製四字熟語は、長嶋監督の発した名言?の「メイクドラマ」と同じだと。


大昔、日本にとって、伝来した仏教は今の私達が感覚する「宗教」とは違ったものだった気がする。文明でありカルチャーであり学問だったはず。


禅は「知」「学」ではないものの実践なんだろうけど、やってる人はエリートばかりだったんじゃね? でもそのなかでエリートを超越したエリート、右脳型メイクライター(笑)がトンチの利いたコトバを編み出していったんじゃないかと。

和製熟語はそもそも小難しくかしこまったものではなくて、ノリよく使われたんじゃねーのか。知性と非知性を兼ね備えた奴らの高度な遊びだったのかもしらんぞ。


座禅だって苦しむためにやっていたわけじゃないだろう。身心の底では禅行が楽しかったヤツだけが悟りを開いたんじゃないかと、おもう。けっして娯楽ではないが、苦もふくめて楽しんだんじゃないの?
ドラクエでいうなら、僧侶のフリをしてる遊び人が、レベル20過ぎて賢者になる的なことなんじゃねーの? 「一休」とかさぁ。ふざけやがって。マジで。卍で。












身心脱落のリアリティ

身心脱落、というからには、身と心が脱落しているということだ。けれどこの言葉を検索すると、心(自我)の脱落のことを言っているニュアンスの方が強い。禅が宗教から派生したものだからだろうか。


心理学やスピリチャルでは、顕在意識を氷山の一角に例えますけれども、それと同じようなことが、身体にも言える。

肚のピラミッドの底が抜ける。
身体的なことを言うなら、股やハムストリングスの力が抜けるということだけれど、身体のことは氷山の一角のこと。

肚とは、肚から下のどこまでも肚である。

身体の底抜けは修行とかボディワークの、到達点ではない。ここからがはじまりなのである。

















ミミをすませば

先日久しぶりに整体施術をした。

受けた相手は氣のことなど関心は無く、このブログで書くようなゴタクも当然興味など無いとおもわれる。
でもそれで全然かまわない。オーケーだ。

知識信心は要らない。たんに身をゆだねられるなら、アトはなるようになるのです。


ボディワークだって、ワークなんてしなくたっていいのである。
たとえば肥田式の「瞳孔のフゲイ」 これはつまり眼をどうにかせよと言っているのではない。眼は何にもしなくていいと言っているのです。ちなみに瞳孔のフゲイは、耳を澄ますことにより勝手に叶います。耳は普段、非常に無意識的に思考に支配されます。耳を澄ますとは、能動的に受動になるということです。眉間のリキミもとれて上丹田が開きます。即ち両目は休んでサードアイが活性するというわけさ。

だから身体もまた、澄ませばいい。
随意筋で、交感神経優位の興奮状態で武道やボディワークをする達人は、いない。随意筋で腰を反ったってそれはただのポーズです。


身体の不具合は整体の技によって治癒するのではない。技を受ける時点で治癒は始まる。技はたんなるキッカケ。そして本格的に治癒が起きていくのは、そのあとの、「何もしていないとき」である。私も受ける人も何も、して、いない、とき、である。


「正中心」だって、知識信心しないほうがよい。正中心なんてほんとうは無いかもしれないじゃないですか。身体を澄ませて、その答えは自身が出すべきです。


ちと長くなりました。身をゆだねて整体をうけたその人は、なるようになって、快方へ向かいましたとさ。おしまい。




久しぶりに興奮した。

ワタシラ世代にとっての具志堅用高は、オモシロオジサンではなく、精悍なカンムリワシだったのだ!

しかし私が小学生のとき 、必ず勝つとしか思っていなかったカンムリワシが敗れた。タオルが投げ込まれると試合終了だと、そのときはじめて知った。

ワタスはショックで呆然としたまま、風呂場へ。 1枚1枚ゆっくり服を脱ぎながら、心の中で誓いを立てた。
(ボクは大人になったら…)←上着を脱ぐ
(具志堅の仇を…)←ズボンを脱ぐ
(とる!トル…トル…トル)←パンツを脱ぐ←フルチン(包茎)そしてガリガリ。湯船にチャプン。
(とる…とる…とってやる…)。。。

ま、その後まもなく渡嘉敷さんが出てきたんでね、ボク野球やりました。

ボキシングはあれですね、試合よりパフォーマンスしか目立たないチャンプがいたりとか、つまんなかったからしばらくロクに見ていませんでしたが、井上スゴイっすね、日本にもパッキャオみたいな選手がいたんですね、いやースゲエスゲエ。感激した。







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