わかれ




さよなら 君の声を
抱いて 歩いてゆく

CMで女の子が歌うこの歌、スピッツの歌ですかね?

10月に、保護した仔猫 。この写真のときはキモチよさそうにしていた。が1週間たつかたたないかの頃、順調にミルクを飲ませているときに、私の手の中ですーっと唐突に息をひきとってしまいました。目も開かないうちにこの世を去った命。なんでやねん

なんでこいつが死んで俺が生きとんのじゃ、何が整体師じゃ何が気功法じゃ、俺はただの猫殺しやないか!クソ、死ね!俺 が死ね! とおもいました。
なんだかわかりづらいゴタクをブログで撒き散らしておいて、私はイノチのこと全然何にもわかっていないのだ。

ヘコみまくっていた私に、過去記事「一族の血」で紹介した超天然ヤマダさんが、慰めの言葉をかけてくれました

「石井さん、その猫たぶん老衰だったんだよ…」


ヘイユー。
おいコラ。
こらホラン。
ほらごらん。
世界は不可知なんだ。




全真全零

俳句の五七五という決まりと武道やボディワークの型動作は似ていて。

「松島や ああ松島や 松島や」
これが名句であるゆえんは、松島と芭蕉の溶け合うエネルギーがあってこそでせう。


「ちぶる整体」をはじめてからは、解剖生理学的な見立てで身体を診ることは なくなっていった(否定するようになったということではありません)。しかしながら人体解剖図を眺めていると、そこかしこにエネルギーの「型」が見える。三角氣号だらけである。体感エネルギーとの答え合わせを観ているようなもんだ。

真中振は、真体功は、私は、肥田式強健術のように腰腹の一点を最重要点とは定めない。なぜなら、エネルギーの解放が先決であって、そのカタチを最初から五七五に定めて行為に勤しむわけではないからである。以前にどこかにも書いたが、腰腹の一点は私の体感では「結果点」「決定点」であり「起動点」「基底点」ではない。
超人肥田春充の示すものは私の示すものよりも遥かに説得力があるとおもう。正しいのかもしれない。が、 それはまるで解剖図を眺めることに似ておる。

今ここにあるエネルギーは、散文的にすぎるかもしれない、だがそれは決して否定されるものではないのである。そして五七五という収束のカタチをとることを、全く目的にする必要はないのだ。

天賦の才は自由であれ。ワタシはワタシにそれをゆるす。





なにもしらなくてもよくね

♪ 今年も また終わった
なんもやってねしオイラ

テネシーワルツのメロディで御一緒に唱和しましょう。さん、はい!

♪ 今年も また終わった
なんもやってねしオイラ




もうすっかり旅にも出なくなったな。

大阪、梅田にフラリと寄った10年前。土地勘もなく迷子になりかかり、カレー屋の前に立つOLさんに道を聞いた。

「あのぅ、食べ物屋が沢山入ってる大きなビルはどっちの方角でしたっけね」
OL 「あぁそのビルの店、値段高いですよ」

…衝撃的な返答でした。東京でこの返答はあり得ない。これが大阪ストラットというやつか!と。
そして私は内心少し動揺しながらも、いや実は関東から来て何もわからずウロウロしてて覚えた目印がそのビルだけだもんで云々カンヌン、などと話していると、ストラットOLの友達(女。たぶん大阪で生まれた女。)があらわれ、やや不審げに私を見ながらストラットに、「どしたん?なん?」と声をかけた。するとストラットは即座に、

「いま仲良くなってん。」

…私は。私は恋に落ちた。このノリ。関東平野からノコノコ出てきたボンクラにとっちゃあ、カルチャーショックと恋のショックの区別などもはやついていやしない。心臓がバクッとしたらみな同じだんべ! 結婚してん! なあ、結婚してんくさ!

がしかし私は心の一部でそれを打ち消した。(おい、ボンクラよ。これはきっと大阪ならではのラテン会話なんだよ。それをテメエはいったい何段跳びの翻訳してんだい、これだから田吾作は困るってんだ。)…私は一見スマート風に、内心は田吾作大ハシャギのテイにて会話をやり過ごし、その場をあとにした。

そういや大昔、俺は俺の知らぬ梅田の某所でスーパーアイドルだったらしい。その劇場に行ってみよう。どこにあるの。また誰かに聞いてみようか。いや、やめとこう。さすがにたぶんシャレにならないだローズ。

などとさまよいながら、私はスマホの無い時代の何にも知らない楽しさを、満喫した夜だったんでしょう。


裸電球を
点けたけどまた消して
フフフフー フフフ
フフフフー フフ

青春のフフフヲー フフフフフー





みなもと


真体功の型を行う。

スーっ … ビッ!

ビシィ!!

ビシィイ!!!

服を着こみ、靴を履き、散歩に出る


中振がある。その外に肉の体がある。そのまた外に衣服がある。

服が生きるのは、肉体にまとうからである。肉体があるからこそ服というものがある。

肉体が生きるのは、中振にまつるからである。中振があるからこそ肉体というものがある。


衣服が肉体をつかうわけではない。肉体が中振をつかうわけではない。
中振が肉体を使い、肉体が衣服を使うのです。





もとのき

中心練修会のHさんが私を訪ねてきてくださいました。Hさん曰く、私のブログは理解しづらい(大抵の人に言われています、ごめんなさい)。 ですが、直接の会話ではそんなことはなかったかとおもいます。

東京で整体をしていた時、愛知から度々来てくれていたS村さんとのセッションなども思い出すが、私が何か聞かれて答えることは、何かを教えているというにはとどまらなくて、私にもフィードバックがある。

「ちぶるさんのセラピーの特色は二人三脚で歩を進めてくれることです」 と表現してた人もいた。


神智学でいうエーテル体とかアストラル体とかの区別を私はハッキリ認識していない。ですから今ここではそれらをひとくくりに「氣」と言ってしまうとして、氣は、個人的なチカラと非個人的なチカラの境にあるようにおもう。非個人的で透明度が高い氣であるほどに、 誰のものでもなく誰のものでもあるエネルギーが流通する。

誰かが誰かに何かを与えるとか貰うとかってのは、あくまでもこの世の、カリソメのスタンスなんだ。





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