俳句の五七五という決まりと武道やボディワークの型動作は似ていて。

「松島や ああ松島や 松島や」
これが名句であるゆえんは、松島と芭蕉の溶け合うエネルギーがあってこそでせう。


「ちぶる整体」をはじめてからは、解剖生理学的な見立てで身体を診ることは なくなっていった(否定するようになったということではありません)。しかしながら人体解剖図を眺めていると、そこかしこにエネルギーの「型」が見える。三角氣号だらけである。体感エネルギーとの答え合わせを観ているようなもんだ。

真中振は、真体功は、私は、肥田式強健術のように腰腹の一点を最重要点とは定めない。なぜなら、エネルギーの解放が先決であって、そのカタチを最初から五七五に定めて行為に勤しむわけではないからである。以前にどこかにも書いたが、腰腹の一点は私の体感では「結果点」「決定点」であり「起動点」「基底点」ではない。
超人肥田春充の示すものは私の示すものよりも遥かに説得力があるとおもう。正しいのかもしれない。が、 それはまるで解剖図を眺めることに似ておる。

今ここにあるエネルギーは、散文的にすぎるかもしれない、だがそれは決して否定されるものではないのである。そして五七五という収束のカタチをとることを、全く目的にする必要はないのだ。

天賦の才は自由であれ。ワタシはワタシにそれをゆるす。