今日は道端で、ヨチヨチ歩きを始めたばかりの子供、知的障がいとくくられる若い女性、に遭遇しました。 言葉を持たない二人、私に話しかけるでもなかったが、私に近づき手を伸ばしたそのサマは、そのタマは、またほんとうに美しくありました。


身体と身体の働き(もちろん脳と脳のはたらきも含む)は、一種の道具であるが、その道具を確かには持たない二人は、誰かに介助してもらわないといけないのだけれども、確かな道具が無いから何も隠すこともない、というか隠す必要がない、というか隠すものがない。

道具は生きていくのに必要、だけれども道具の優劣がタマの優劣と比例するわけではない。
そして道具は不滅ではないし、厳密に特定の個人だけの道具というのは、無い 。分かち合えないものは存在できないのです。