私は野球の川上哲治や映画『マトリックス』のネオや合気の植芝盛平のようなレベルに至った、
などといいたいわけではないのですが、
『動いているものが止まって見える』ことがあります。
といっても、なんのことはない、


みたまんま

みたまんまに見える、
ただそれだけである。

そのみたまんまが連続しつづけている。
みたまんまのつぎは→みたまんま、でしかありません。

しかしマインドは、みたまんまを遅れて認識します。で、そこで、切り取った1枚の『みたまんま』を抱えたまま手離そうとはしなかったりもします。動いているものが止まって見えるのは、マインドの目なのではありません。マインドの目は『動いているものを止めて見ている』のです。よってマインドは『みたまんま』をみていません。





みたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんま

↑ではなく、
みたまんまみたまんまみたまんま(あ)みたまんまみたまんま(キレイだな)みたまんま(欲しい)みたまんま(ゲットしよう)みた(どうやって)み(うーんと)

みたいな。ことをしてるのが我々凡人です。
上記の文字を一目で観るのでなく、文章を追って読んでいるのが、私達凡人の日常意識です。



そこでスピリチュアルや修行の世界では、マインドの働きを邪魔なものとして扱います。が、それはあくまでもプロセスでしょう。マインドを消滅させたら目標達成=悟りではない。
ノーマインド、それはマインドの想像するユートピア(何処にも存在しない場所)である。
地表で人間が生きるのにノーマインドでいることは不可能。



前述した達人たちと我々のあいだには、ほんとうは、距離というか境界はない。修行やスピリチュアルな実践をしたら達人特急のアセンション切符が得られて終点『みたまんま駅』に到着するというのとはちがうのです。

たった1つの理想の『みたまんま』で静止させることが達人の境地ではない。そのような境地はまさに凡人、あるいは瞑想とかでラリッた狂人の見ている世界である。

川上さんはバットを振るし、ボールは飛ぶ。





1人の体をみたまんま見れば


みたまんま


に見える。んで上空から人達を見れば



みたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんまみたまんま



に見える。



なおまた見れば



まんま(スキ×スキ)まんま(スキ×キライ)まんま(あんたバカァ?×逃げちゃダメだ)まんま(エヴァにのれ×エヴァにはのらんといてください)まんま(碇君、どこ?×オギャアオギャア)まんま



に見える(聴こえる)。

じっさいはこのように固まった文字でないし、常に変動した姿です。ではなぜそれが『止まって見える』のか。

時間に追われていないからだ。
時間を計らないからです。

のんびりしているからというのとはちがいます。それだと時間に追い越されます。

しかしまた私は、ついついのんびりマインドでも居てるものだから、社会生活で置いてきぼりをくらいます(笑)。
むしろ他人からは『アイツ止まって見える』のかもしれません(笑)。



ちなみにたしかブラックホール理論では、人はブラックホールに近づいていくにつれ、超猛スピードで吸い込まれると感じるが、その様子をハタから見ている人は、その人がすんごくゆっくりゆっく〜りと入っていくように見えることになる、らしいです。