1冊だけ手元に残っている『月刊秘伝』のかなり昔のバックナンバーを、久し振りに引っ張り出して、ペラペラとページをめくり、眺めたり読んだりしました。

モノゴトの理解ってのは、けっきょく自分次第なんだな。 自身の体感が薄ければ、そこにどんなに貴重なことが書かれていても、馬の耳に念仏。十年前の自分には咀嚼できなかった内容が、今は身体で噛み砕けていることを、シミジミと感じる。

そして写真をいろいろ見ていると、あらためて、中国武術と日本の古武術では、姿勢の取り方がちがうねえとおもうし、また、運動科学に立脚した新進気鋭(といっても十年前の情報だが)のボディワーカー逹の提唱する姿勢は、たいがい、腰を丸めるでも反るでもなく、フラットだ。これらの違いを、どれが正しいか優れているかなどとジャッジするのでなく、これはフィロソフィ(哲学)の違い、とみる。

いずれの基本姿勢であろうと、居着いて『使えない』姿勢をとることが一番よくないのであって、どれが正解かなんて頭で考えるものではない。そんなものは自身で答えを出すものなのさ。

強健術とシンタイコウには決定的な違いがある。シンタイコウは、正しい姿勢というものを、必ずしも、腰を反った姿勢とは定義しない。腰を反った姿勢をとるために精進するわけではなく、一番大切にしているのは、まず、シンタイの声を聴く能力が研かれることです。姿勢にしろ呼吸にしろ、自分(自我)でおこなうちっぽけなコントロールを解放することが第一義であります。ですから自分(自我)で腰を反ったって丸めたってフラットにしたって、あるいは自分(自我)で横隔膜を上げたって下げたって其のままにしたって、それはシンタイコウではないのです。
『結果』、腰が反れる。『結果、横隔膜は其のまま。ここは自分(自我)に譲るわけにはいかないところです。自分(自我)が出来ること、それは創造ではなく、体験である。


♪ 『オレ』のほうが正しい

(THEハイロウズ。そうか、そうだ)