真才



先天的に才能がある人を天才と呼び、そうでなければ努力して秀才になるか、それとも凡才でいるかしか、ヒトには選択はないのか。いいえ。

「真才」になる術があるのである。

真才とは何か。


1、 ほんとうのことをする人である

2、ハラの下からよみがえる人である

3、時間を超える人である

4、発光する人である


これが具体的にどういうことかは、またのちほど。



次回予定
「ほんとうのこととは何か」
「ハラの下からよみがえるとは何か」
「時間を超えるとは何か」
「発光するとは何か」

「ネバーマインド ザ ボロックス」









脳科学とスピリチュアルとボディワークのシンピ


脳内物質についていろいろと調べていたところ、とても興味深いことを知ることになりました。

快感を司るドーパミンは、二種類あるというのです。1つは「やったった系」。もう1つは「ヤル気系」。
やったった系のドーパミンは、満腹や酒やギャンブルでの勝利などの、ややネガティブな依存とも関係するが、健全な(仕事やらスポーツやら)目標を達成したときにも分泌される。なんであれとにかく「満足」したときに出る報酬ドーパミン。

かたやヤル気系のドーパミンは、結果ではなく意欲そのものを司るもので、意欲的に行動することでよく分泌される。また、認知症やパーキンソン病を防ぐという。

で、この二つは、分泌される場所が少し違うのです。脳の基底部の、やや前側からヤッタッタ系が、その少し後ろからヤル気系が出るのだという。私はその解剖図を見ていて、「ハラ(前)とコシ(後)にも関係してんじゃね?」とおもいました(前側は「腹側ナンチャラ」という名称だったということもあって)。「腹が据わる」と「腰を据える」という表現にも、二種のドーパミンの性質がなんとなくあらわれていませんでしょうか?

なんとなく「イザナミ、イザナギ」という言葉も私の頭の中を駆け巡りましたが。女性性はハラパミン、男性性はコシパミンということになるのでしょうか。

太極拳的な腹の気功と肥田式的な腰の気合の違いも関連項目だとかんじます。 腹の気功は満足系のドーパミンが出て、腰の気合はヤル気系のドーパミンが出ているんじゃないかとおもうのです。いや、おもうっていうかなんとなく感じるのです。
また.腹系は「生存」にこだわりますが、腰系は生存にはあまりこだわっていないようにおもいます。わかりますか。この世のイノチの執着度にいささかの違いがあるようにおもうのです。


この話、非常に面白くないですか?
私は非常に面白い。だからこの研究及び調査を今しばらくつづけることにする。つまり今脳内ではヤル気系のドーパミンつまりコシパミンがピュウピュウと分泌されているのだ(笑)。


次回予定
「コシパミンからくるハラパミン」
「腰腹同量胴パミン」






ふるふるふる


頑張ることが嫌いで、頑張ってこなかった私ですが、「頑張らないことに頑張ってきた」ようなフシがあることは否めません。 そんなスタンスを取っていた自分を客観的に眺めていましたところ、そこにあったものは、頑張らないことを頑張ることすらやめたら、人間として完全に駄目になるかもしれないという密かなる恐怖心、自己不信でした。

ブログでホザイていることとは逆のことをしていたのであります。脱力などしていないし、信念を否定しておきながら信念を隠し持っていたのです。「頑張らないぞ!」という信念をね。
まあ、ここはひとつ、頑張ってきた自分をねぎらうことにする。笑


さてそんな有り様をかえりみることと関連していることかもしれませんが、長年、長年に渡って、どうしてもどうしても引っ掛かりを感じ続けていた真向法の第二体操(前屈)が、他の動作と同じレベルにまでシフトチェンジしたんだ。

20才の時の役者のオーディションで、参加者全員開脚をさせられたとき、誰よりも全く脚が開かず恥ずかしい思いをしてからというもの、真向法に取り組むようになり、コツコツやってるうちに、とても気持ちよく開脚できるようにはなりました。

ですが、27才頃に書いていた研究ノートには「第二体操だって気持ちいい運動のはずである」と記した憶えがあります。つまり当時はまだ前屈が気持ちよく出来なかったのです。骨盤が全然倒れなかったのをおぼえています。

あれからほんとうに少しづつ少しづつ変わってきました。ですが、徐々にスジが伸びてきて柔軟性がついたとかいうことではないのです。
深層筋と深層心のフラット化によるものだとおもう。

かなり気持ちいいぞ、第二体操。









ふるふる



私が初めて全身に氣が通るようになったのを実感したのは、地道に毎日何時間も気功をしてやがてそうなったというわけでもなく、とある曰く付きの神社に参拝したときの出来事です。

かつて習っていた太極拳の動作がなんとなく起こり、それは習っていたときよりもはるかに上手い動作(中身つまりケイのある動作)で、私は無我夢中になって自然に起こる動作に身体を任せつづけました。人目をはばかる必要はありませんでした。観光スポットでもなく昼間でもない千葉県の山の中のちっぽけな神社(ちなみにマカタ神社ではありません)に友人と二人ぼっちでしたから。

私が動作に夢中な最中、友人の話によると、境内では何故だか急に、炭焼の薫りが漂ったらしいのですが、その理由はよくわかりません。私の身体が燃えていたのかもしれません(笑)。DNAのらせんが2重から多重に変容すると身体は炭素ベースではなくなるらしいので、それまでの三十数年の身体は焼かれていたのかもしれん(笑)。

やがて私の身体は、習ったこともない合気道の舟漕ぎ運動にそっくりな動作を、意図せずしていました。これは身心にインパクトがありました。ほっといたらいつまででもやっていそうだった。

今おもうに、舟漕ぎ運動って、スワイショウと強健術の中間的な運動だとかんじます。

スワイショウは単なるリラックス運動ではなく、研ぎ澄ますことにより殺人拳にもなりうるとおもいますが、特性としては、じっくりやってじっくり体を練る動作である。かたや強健術の1動作の中身の凝縮度は半端ないので、時間をかけることを許さない。それは都合がいい反面、誰もが出来かねる難度である。あのときの私の身体も、肥田式強健術には全くチューニング出来なかった。


「真剣さとユルさの絶妙なアンバイ」で、ボディワークとして直ちにそれを行うならば、たとえばスワイショウのひと振りひと振りを、一撃必殺の技としてやるがよい。が、それは鬼の形相でやるものではない。

アンバイとは「ときに真剣にときにユルく」などという時間の配分のことではない。アレをやってコレをやる、のではない。
そして何回やるだとか何分やろうだとかと、時間にもたれかかって数をモノサシにした運動はやらないことである。

強健術の一発は爆弾が破裂して己れが木っ端微塵に砕け散るようにやるがよい。言うは易し行うは難しとはこのことであるけども、ほんとうに本気のとき、ヒトは言うより先に行っているものである。アッサリと。


次回予定
「ちぶる整体は自由料金で」







ましんトレーニング


前回の記事で書いたように、自分の意識とは違うところから出てくるような知らない言葉が、寝起きの狭間で出てくることはたまにありますけれども、トンチの利いたナゾナゾっぽい言葉が浮かぶこともよくある。

たとえば数日前は、「ロイヤルストレートフラッシュが揃う」。で、寝てるあいだはこの言葉をヒントにいろんなことが閃いている気がしているの(たとえばロイヤルストレートフラッシュ的姿勢とはどんな姿勢か、とか)だが、起きてしばらくすると、何のヒラメキも残っておらず、 言葉は瑞々しさをうしなっており、姿勢のロイヤルストレートフラッシュやって何だか彦麿呂のギャグみたいにしか思えなかったりする(笑)。

で、今朝出た言葉は「真芯(マシン)トレーニング」。この題目でいろんなヒラメキがあったものの、今はたんなる駄洒落にしか思えないほどそのヒラメキの内容は忘れました。
もともとそもそも、ヒラメキなど無かったのではないかともおもう。ただポッと一言思い浮かんでなんだかイイ気になっているだけなのだ。


だが、言葉が時間を経っても脳裡にしつこく残っている場合、その言葉を成仏させるための作業に着手することになる。「真芯トレーニング」を実際に開発し、「姿勢のロイヤルストレートフラッシュ」を顕現するまで…。


つづく


次回予定
「ちぶる整体の自由料金制度」





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