私が初めて全身に氣が通るようになったのを実感したのは、地道に毎日何時間も気功をしてやがてそうなったというわけでもなく、とある曰く付きの神社に参拝したときの出来事です。

かつて習っていた太極拳の動作がなんとなく起こり、それは習っていたときよりもはるかに上手い動作(中身つまりケイのある動作)で、私は無我夢中になって自然に起こる動作に身体を任せつづけました。人目をはばかる必要はありませんでした。観光スポットでもなく昼間でもない千葉県の山の中のちっぽけな神社(ちなみにマカタ神社ではありません)に友人と二人ぼっちでしたから。

私が動作に夢中な最中、友人の話によると、境内では何故だか急に、炭焼の薫りが漂ったらしいのですが、その理由はよくわかりません。私の身体が燃えていたのかもしれません(笑)。DNAのらせんが2重から多重に変容すると身体は炭素ベースではなくなるらしいので、それまでの三十数年の身体は焼かれていたのかもしれん(笑)。

やがて私の身体は、習ったこともない合気道の舟漕ぎ運動にそっくりな動作を、意図せずしていました。これは身心にインパクトがありました。ほっといたらいつまででもやっていそうだった。

今おもうに、舟漕ぎ運動って、スワイショウと強健術の中間的な運動だとかんじます。

スワイショウは単なるリラックス運動ではなく、研ぎ澄ますことにより殺人拳にもなりうるとおもいますが、特性としては、じっくりやってじっくり体を練る動作である。かたや強健術の1動作の中身の凝縮度は半端ないので、時間をかけることを許さない。それは都合がいい反面、誰もが出来かねる難度である。あのときの私の身体も、肥田式強健術には全くチューニング出来なかった。


「真剣さとユルさの絶妙なアンバイ」で、ボディワークとして直ちにそれを行うならば、たとえばスワイショウのひと振りひと振りを、一撃必殺の技としてやるがよい。が、それは鬼の形相でやるものではない。

アンバイとは「ときに真剣にときにユルく」などという時間の配分のことではない。アレをやってコレをやる、のではない。
そして何回やるだとか何分やろうだとかと、時間にもたれかかって数をモノサシにした運動はやらないことである。

強健術の一発は爆弾が破裂して己れが木っ端微塵に砕け散るようにやるがよい。言うは易し行うは難しとはこのことであるけども、ほんとうに本気のとき、ヒトは言うより先に行っているものである。アッサリと。


次回予定
「ちぶる整体は自由料金で」