「どこそこのパワースポットに呼ばれる」というスピリチュアル系な言い方がありますけれども。それをいうならボディワークは、身体の正中心や真中芯に呼ばれておこなわれるものなのであります。

はじめに呼ばれるのです。そこからおこなう修練を「道」といったり「プロセス」といったりします。
はじまりの声は自分自身でしか聞き取れないものですが、自分自身にはそれがハッキリと聞こえるるでしょう。その声はコトバではないかもしれませんがね。

呼ばれてもいないのにやる奴などいないのです。なぜなら呼ばれてもいないのにやったって、やりきらないからです。やりだした奴は必ずやりきります。なぜならやるしかないからです。なぜなら呼んだのは、コアセルフだからです。


坐禅は優秀なボディワークでしょう。典型的に「何処へもいくところなどない」ことを示す技であり術であり道であります。そしてシンタイコウで開発した「臥禅」もまた、テメエミソですが、素晴らしいメソッドです。私を呼んでいたものがここにあったのだ。

太極拳を習いはじめたとき、「箸を持つチカラがあるなら太極拳は上達できます」と先生が言いました。当時はいささか盛った表現なのではないかと思いましたが、今となってはその意味がよくわかりました。


今ここに在るために、今ここに在るチカラ以外のチカラを鍛える必要など全くない。だいいち、今ここに在るチカラほど強大なものはないのである。