自由 からの自身

「自由になるための」プラクティス、修業、生活、闘争、その他諸々は、非常に不自由です。
自由からしか何もできることはない。

自由からしか自身ではいられません。
よく動かない肩甲骨をよく動かしむるのは、不自由な肩甲骨や筋肉にムチ打って何かすることでではありません。肩甲骨の動く自由をみとめるのです。

よく決まらない姿勢を決めうるのは、どこまでも姿勢に自由を与えることによってであります。自由していたらだらしなくなる、だらしなくしかならない、のなら、安楽しか味わえていません。自由とはそんな甘いもんじゃない。

浅い呼吸が深まるのは、呼吸に自由があるからです。深呼吸するのは呼吸であって「ボク」ではない。呼吸とはそんな浅いもんじゃない。


次回予定「胸」






自分からの自由

私達は身体とともに地表に誕生してくる。ほとんど何も出来ず何もわからず本能のみで「ここにいるよ!ここにいるよ!」というエネルギーを発して。呼吸して。

乳を与えられ、排泄し、首がすわり、立ち、歩き、区別と認識が段々ハッキリしてくる。おかあ、おとう、バアバ、ジイジ、オミジュ(水)、オッパッピー(小島よしお)、エトセトラ。

区別や認識とともに自我ができてゆく。ボク。ボクね、コレがしゅき。ボクね、きのうね、歯が抜けた。コレぼくのクツ。このころたぶん空気も認識するがそのうち忘れる。

色々な体験をする、空想もする。メモる。 ボクはかけっこが速い。ボクはバカだ。

そんなボクはやがて、ボクであるためにあるいはボクじゃないボクになるために宿題をつくる。宿題をこなす。あるいはこなせない。


「ボク」がある前からイノチはあったし、イノチは「ボク」より前にありつづける。「ボク」は本来なにも持っていないしなにも持つことはできない。イノチが「ボク」を持つことができても。


整体の本当は、宿題をこなすことではありません。遊ぶことです。

真体功の本当も、宿命とか運命 とか使命とかどうでもいい、イノチの遊びです。「ボク」のする遊びよりもオモチロイ、遊びオブ遊びなんです。






たびかえる

ゲームはしないしスマホを持たない、のであるが、非常に気になるアプリがある。すごく気になる。その名は「旅かえる」。

新聞記事によると、そのゲームはまず、カエルに支度をさせて、旅に送り出すのだそうだ。

カエルは時々旅先での写真を送ってきたり、お土産を持って帰ってきたりするらしい。そしてプレーヤーは、そんなカエルの帰りをただ待つだけなんだってさ!あみん かっ!

しかしカエルが3日ほど音信不通だったりすると、メシがノドを通らなくなる人もいるらしい(笑)

非常に興味がある。やってみたい。でもそれ以上にスマホが要らない。 それにそもそも…

…リアル旅カエルなのである。人生そのものは旅カエルである。私自身はまずカエルである。色々な人生の旅をしている。
時々送られてくる写真を楽しみに待つ私、帰りを待ち帰りを喜ぶ私というのは、分裂症のカタワレとかいうんじゃなくて、真我とかハイアーセルフとか真中心とかそういった類いの、存在のフルサトとでもいうような、そんなところからの観照者なのです。
前記事の内容みたいに例えるなら、色重力=旅するカエル、旅
空引力=プレーヤー(待ちビト)、中心


神様とかいう名の大我は、私達全員の旅と帰還を楽しんでいるのであろう。






しんわ

地球上では、引力も重力もある。どちらかだけしか捉えることが出来ないわけではないのですが、映画に例えると引力はスクリーンで重力はフィルム(映像)だから、普通にしてりゃあ人の感覚や意識は重力を捉える。もしくは囚われる。

「色即是空」の、色は重力、空は引力

龍宮城は、地表のような時間のある処にその所在は無い。かかる重力も地表よりも軽い。よって太郎は酒を飲んでいるということになるのだ。よってスクリーンに写る映像も、苦しみ悲しみのような重めの描写はミスマッチなので、鯛やヒラメが舞い踊るしかないのである(笑)。
そして太郎は歳をとらない。乙姫さまは「音秘め」ともいう。時間がなけりゃあ音も無いからである。龍宮とは「理由空」ともいう。時間がなけりゃあ理由なんて要らないからである。

さてしかし地表に生きる私達は、スクリーンに写る映像ドラマをとらえて、時間を過ごす。すると「印象」が発生する。「感想」とかね。喜怒哀楽が発生してそれを思考して分析したり繰返し味わったりとかするということです。そんなドラマ達をずっとずっと味わっていたいが為に、輪廻転生というものまで「想像」して、永遠とやらがあるけれど、その永遠は自転する地球の力によった永遠性であり、存在が存在するという存在の久遠とはまた別の、「太陽系があって地球の自転があって地表にあるところでなら起こり続く現象」である。

太陽もなくなって地球の公転もなくなって地表もなくなるとなると、スクリーンもなくなるということになるが、そうなってくるとどうなってくるのか、太陽系があって公転があって自転もする地球の地表からこの記事を書いている私はさっぱりわからない。






破滅的な気合でチカラを肚に落とすべきではない

胸だとか首だとかにチカラ(リキミ)を残したまま、気合という名の強引で下っ肚にチカラを込めることは、非常によくありません。おそらく昭和時代から引きずってきた悪しきやり方のことです。

いかにも気合を入れているような錯覚。ヘンな部活動やヘンな武道なんかでは、そういうパフォーマンスをしていれば懸命にがんばっているということになるのかもしれませんが…


錯覚といえば、そもそも「チカラを肚に落とす」こと自体が錯覚なのです。科学的な観測をしてもおそらく、落としているつもりの意思よりも0コンマ何秒か早くチカラは落ちているはずです。

さらには、「力を抜く」のも錯覚です。

落としたり抜いたりしているのは、意思ではないのである。意思ができることは、落ちたり抜けたり入ったりするチカラの邪魔をすること、もしくは0コンマ何秒遅れてチカラに則ってついてゆくこと、のどちらかです。

錯覚とは、意思とは何でしょう。自我意識です。


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