今現時点では、私は、真体功動作といったら仰向けに寝ておこなう「聖フラクタル体操」を数秒やるだけで充分だったりする。 日常動作も含め、その他のエクササイズは、それの応用みたいなもんだ。バックベントなんて一体なにが難しいことなのか、さっぱりわからなくなってしまった。

見た目の型といったら、足を少しだけ動かすだけ。こんなもんを人が見ても「動きが小さすぎてわからなぁい!」と、渡辺謙のように言いたくなるかもしれない。しかしハズキルーペならぬ、観の目で観られるならその運動で何が起きているかはわかる。

真実はこんなもんだ。でも、イカニモなことをやる必要やプロセスを否定するものではない。イカニモなことをやってきたからこそ、こうして足を少し動かすだけで全身は凄い運動が起こるようになったんだから。しかしまた、イカニモなことをやる必要が絶対あるかというとそれもまた違う。 こればっかりは一人一人正解がちがう。


禅寺で修行僧にならないと、その道を歩めない人もいるでしょう。道着や袴を履いて武道をしないと気分が乗らない人もいるでしょう。それが礼儀だと定義する人もいるでしょう。段位や印可などのアテが欲しい人もいるでしょう。


だが、メソフル道場は、≪猫の穴≫ である。 オマエは猫だ!猫であれ。猫ひろしじゃないよ。

♪眠ければ それで いいんだ

魚さへ あれば いいんだ

研ぎすぎて 壁を壊した

僕ニャのさ

(タイガーマスク エンディング改)



つづく

メソフル道場≪猫の穴≫ プロローグ

二十歳のとき。
役者を志してから、初めての仕事の撮影で、日光のほうの山奥へ行きました。出番の合間に一人でぶらぶらしていて、やがて大きな木の根元に座り込みました。座り心地が良くて、目の前は湖畔の風景がドーンと広がっていた。そこで私は、すごく不思議な感じになった。何だか、全部の一部である自分を感じていたみたいな。今おもえば、あれは瞑想だったともいえるのでしょう。

「瞑想、瞑想」とかおもって座らなかったからこその、純粋な体験をしたんだとおもう。瞑想者が大木の下で瞑想をするのにはワケがあったんですな。迷わず座れよ。座ればわかるさ。

対して「禅」って、寺で自然を表した庭を前にして座ってますけど、、あれっていかにも修行っぽくね? 観光で竜安寺に行ったことはありますが、石庭とかさ、もうなんだか、修行の「お膳立て」感がスゴイ(笑)。

京都の寺や庭の、自然や小宇宙の表現の完成度は尋常じゃないとおもう。よくもわるくも私はあの町に「膜」みたいなのを感じた。結界か? わからんが、とにかく、超哲学超数学超芸術的な空間に感激していた私は、すべてを破壊したい衝動におそわれた。


対して、奈良。特に三輪山の近辺。ここはここで膜のようなものを感じたが、閉塞感はなかった。時間や空間のフレームが曖昧な感じ。もしかして京都でも鞍馬山ならこれに似た印象だったりするのかな?破壊衝動は起こらない。むしろ自分がとろけて消え去っていくようなかんじでありました。



つづく



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