TVCMから、聴いたことのあるような聴いたことのない歌が聞こえてきました。陳腐な歌でした。
だがなぜか、それを聴いたあとノリノリで口ずさんでいる私。
あ、そうか、あの歌だったか。
やっぱしヒロトが唄ってナンボなんだよなあ。
だからといって誰かが唄ってはいけないわけじゃない。ブルーハーツの歌はたくさんの人がつい唄いたくなる歌ばかりなのだから。
さて。
肥田式強健術は肥田春充がやってこそナンボで、他の人が手を出すべきではないもの、でしょうか?。
やりたくなるならやればいい。太極拳やヨガは誰か個人のものではないでしょう。ライセンスなどない。だが、肥田式は…はたして誰もがついついやりたくなる運動でしょうか(笑)。
腹が出るのはイヤだという人あり。効能や神秘を追い求めてばかりでやりきれない人あり。そもそもポピュラーじゃないから知らない人多数あり。
たとえるなら肥田式はラルクなんちゃらとか桑田佳祐みたいにカブいた歌唱でなく素朴な歌唱のような素朴な運動法だ。まるで、かけそば。
私はかつて、はじめて肥田春充のフィルムを見たかぎりでは、あまり大した何かを感じることはありませんでした。日比谷野音のブルーハーツのビデオを見たときの衝撃には全然全然およばなかった。
でも今はちがう。とはいえ簡易強健術はあまりやらないです。全然、ついついやりたくはならないからです(笑)。ついついやりたくなるのはシンタイコウ式強健術である。
どちらも要求されるシセイの核心は変わらないのだとおもうけど、私はなにせ十個の表層筋の発達とかどうでもいい。てゆうか、シンタイコウ1種の動作で簡易強健術の何種ものハイブリッドになっている。
ほんとうは、強健術は、なにやら特種な動作法とか呼吸法とかってんでなくて、どこまでもそのコアにアプローチしていったなら、ほっとんどの人はついついやりたくてやりたくてたまらなくなるシセイ術なんだとおもうんだけどね。たとえば誰もが昼寝のあととかに体を伸ばしたりするじゃん。シセイをきめる作業ってのはソレと大して変わりないです。
♪あれもしたい これもしたい もっともっとしたい
シセイ次第で、より細やかに粒子が観えるっていうね。
シセイをキメると、ものがハッキリと観える(視力とはまたちがう)。
といっても、常に腰を反っている必要はありません。腰を反っていないと粒子が観えないわけではありません。
では何故に、あえて腰をきめるのかといえば、『ピント合わせ』みたいなもんです。時折チューニングするのです。
何気にシゼンと合わせたくなるものなのである。
細やかに粒子が観えるということは、ジシンが細やかにあるからです。
細やかに粒子が観えるとナンかイイことあんのかよと思うかたもいるかもしれませんが、それは細やかに粒子が観えればわかるさ。とだけ云っておきたいところですが、少し述べさせていただくならば、
ホンマのポジティブシンキングがあるとすればこういうことを指すのだろうし、 ホンマに気分がいいとはこういうことを指す。だけどこれは思考的感情的な高揚感とはちがいます。それよりはるかに限りなく絶対的なものです。
また、ジシンが細やかにあるということは、ガサツな動作、固い体、過去からの思考にはならない。ムダな予測などもしない。シゼンに予観しているからです。
昨晩、さあ寝ようかとおもったが、やおら起き上がって、日中に済ませていたはずの、ルーティン的にこなす各動作(時間にして数分)を、ふたたび行いました。
正中心感覚が変わったような気がしたからです。 このタイカンに従って動作をしてみたくなった。そして動作した(肥田式強健術は四動か下体か上体を1、2回。あとはシンタイコウメニューをサッサカサッサカこなす)。
立ち方が今までとはまた変わったようだった。歩の進め方も。 そして今朝起きて、腎臓のあたりと肩甲骨の奥深くが、キモチよいマッサージをされているかのような心地いい筋肉痛的刺激が続いています。
で、正中心そのものについて。
是については、そのうち、解剖生理学的&運動科学的な解説の長文(笑)を書くかもしれませんが、 とりあえず今は抽象的なことを書き残しておきます。
正中心は神輿である。 其れを担ぐ者は自分であるが自分ではなく、ミコシも自分ではないがジシンである。
シンタイ雛形にはまた雛形があり、拡張体にはまた拡張体がある。
ミクロとマクロのマトリョーシカ。