人の変化や進化具合は、虹色のようだとおもう。黄色と橙色のあいだに垣根があるわけではなく、なだらかに変色している。
チャクラもそうだ。七色のチャクラが七個あるようには私は感じない。赤色と橙色と黄色と緑色と青色と紫色と白色のあいだにありますのは、垣根ではない。

上肚真中心の直ぐ上、ハートチャクラあたりを『心中真』と名付けさせていただきます。肚上心中真と上肚真中心にも垣根はない。垣根はないが天の川がある。横隔膜である。

両カカトは副丹田球である。ここから奥股〜仙腸関節〜下丹田球へと、鯉が上ってくる。それは肚上心中真から正中心へと直下に刺さるチカラと合わさり、肚には三輪山の三ツ鳥居のような力感ができる。これが本体でありシンタイの礎である。 このシンタイがあると、自然と強健術のような踏みつけ運動がしたくなってきてムズムズする。が、そこは抑えて、気功や仙術の如くに静かに、肚の鯉に餌をやる。
すると鯉は天の川(横隔膜)を昇る。龍に変身しながらね。
昇天した龍をイノリとともに肚へ還します。
これをカンシャという。

肥田春充の肥田式強健術は、まるでこのようなことを、幻想チックにでなくダイレクトに素早くおこなう運動であるとおもう。そこには上記のような『比喩』でなく『理論』がある。
けれども、私は、理論というものだって、一種の比喩だとおもう。
いや理論こそ『タトエ話』なのである。

イメージングも理論も、シンタイからのコタエなのである。イメージしたからシンタイが出来るのでも、理論を構築したからシンタイが出来るのでも、ない。感覚も理屈もシンタイからやってくる。シンタイ動作をオノマトペで表現しようが理論で説明しようが、どっちこっちそれはタトエ話である。



身体にシンタイがあるならば、存在のリアリティやクオリティは激変する。虹のようになります。余談ですが、『面白い』の語源は、『顔が白い』つまり『表情が輝く』です。 表情が輝くのは、空が晴れて天から光がさすからだといいます。天晴れ→あっぱれ です。んで、あっぱれといえば『あっぱれ正中心』という秀逸なタイトルのブログがありますよね(笑)(笑)。オモシロイやろ。