大本教の信者であったという芥川龍之介の代表作『蜘蛛の糸』。

子供の頃は、『自分さえよければいいという心があるかぎり地獄行きになりますよ』という、道徳的な話なのだとおもっていた。

しかし成人になって、(アレってホントは何がいいたいのかな?)と、ふとしたときに思うことが、たびたびありました。 芥川が大本の信者だったということを知ったことも影響しているとおもう。だったらたんなるイイ子ちゃんなメッセージなんて発信しねえだろ?と(笑)。


最高にいい現実とか、ボディワークだったら最高にイイ体感とか、瞑想でいうなら至高体験とか、何やらどこかイイところ(現実社会の地位でも、五次元世界でも、至高の境地でも)へ達しようとするのって、蜘蛛の糸を探したり垂れてきた蜘蛛の糸をつかんでのぼろうとすることと、ヘタすりゃ同じことをしがちになるとおもいます。

でも、足を引っ張るのは誰あろう、他人ではないとおもいます。自分自身である。修行不足な自分とかじゃない。『リアルな自分』である。

ほんとうの自分(という名の実はエゴが妄想する究極にイケてる自分)を求めて浄化とか修行とかして、蜘蛛の糸をつかむ(つまり覚醒とか大金とかツインソウルとかアルファードとか聖中心とか量子脳とかを得ようとする)けれども、どこかへいこうとするその足は、リアルな自分につかまれるのである(笑)(笑)。

とはいえ、地獄だか日常だかで苦しみを味わい続けるのがリアルな自分、ほんとうの自分、ということでもないのである。それもまた全然ちがうのです。平凡な場所で平凡に暮らすことが一番の幸せとかいう話ともまたまったくちがいます。

蜘蛛は糸を自身の内から出し、張り、編む。
定規で測らずとも描いたその曼陀羅の真ん中で、ふだんは、じっとしている。



次回予告
『真体離脱と真体離脱アフター、涅槃と涅槃からの此れ』

『ワタシという名の神という名の磁力という名のナニカシラ』

『逆流方向にスイスイ泳ぐ魚とヨットと重力を使った体術』』