六プラス




陰陽師安倍晴明とこの辺の地域の伝説について調べてるうちに、ひょんな感じで脇道にそれて、今まで知らなかった、あることをいろいろ知りました。


日月神示で有名なマカタ神社は、じつは二ヶ所あるということを知らなかったです。アメノヒツク社があるメジャーな方が里宮で、奥宮はまた少し離れた地区にある。そっちは知らなかったし行ったことはない。でその奥宮からは神代文字が書かれた紙が出てきたらしいけど(たぶん何年か前のニュース)。

マカタ神社情報にかぎらず、ガラケーサーフィンしてるうちに、かなり興味深いこと(それはシンタイコウのコアにまつわること)を知って、なにやらシンタイのDNAらせんがザワザワとザワめきだしました(笑)。

千葉北東部から茨城にかけては、もののけ姫チックな匂いが立ち上がってくる。まつろわぬ者たちの遺したエネルギーが、地下深くから脈動している。

全くあたらしく生じたタイカンと、無関係ではあきらかになさそうな処の存在も知りました。そこには行かなならんのだろうなあ。 久々にフィールドボディワークせなあかんなあ。ディープなことになるかもしらんなあ。誰か付き合ってくれんかなあ。祟り神に祟られることも厭わない人いますか?募集します(笑)。












ちょっと箸休め的にコラム。

タオといえば陰陽、陰陽といえば陰陽師、陰陽師といえば安倍晴明が有名ですね。 仏僧が謎の病気にかかり、仏法の祈祷も通用しなかったのを、安倍晴明はたちどころに治したとかなんとか。その他いろいろ。


安倍晴明は茨城の筑波山が出生地だという説があるらしい。 筑波山からここ銚子あたりまでは、水の流れとともに人の流れもあったそうです。でこの地には、その説を裏付けるかのような伝説が残っています。

東洋のドーバーとまで言われる絶景、屏風ケ浦が銚子から旭まで広がっています。
かつて安倍晴明は、政治のゴタゴタから逃れるため生地筑波山へ隠れた。そこからさらに銚子までおりてきた。 そこで大地主の娘(延命姫)に気にいられ、求婚された。晴明は逃げた。でも追いかけられた。でも逃げまわった。でも追いかけられた。あげく、屏風ケ浦まできた。そしてなんやかんやであれやこれやありましたっていう伝説です(笑)。
陰陽師としての武勇伝的な話じゃなく、わりとゲスな内容でそれはそれで興味深いものですが、くわしく書くのはめんどくさいです。興味のある人はどこかでちゃんと調べてね。


でこの屏風ケ浦は、2時間ドラマで犯人がよく追い詰められてる場所です(笑)。崖の下を歩くこともできますが、ちゃんと整備はされておらず、なかなか危ないです。が、ステキなところです。









♪むかしむかし浦島は 助けた亀に連れられて



むかし石垣島でシュノーケリングをしたとき、子供の頃に絵本で観た龍宮のような光景が眼前に広がりました。乙姫さんはいませんでしたけど。御馳走もありませんでしたけど。三年も潜っていられませんでしたけど(笑)。


仙術では、行が進むと、食事を摂らなくてもいい身体になるといいます。断食行ではなく食事不要です。さらに『呼吸もしなくなる』という記述もあります。それはたぶん、オウム真理教がやっていた水中クンバカとかいう我慢大会みたいなことをするのではなく、たんにしなくなる、と。

とにかく『苦行』ではない。修験道の行者とはなにやら趣がちがうようである。精を漏らさなくなる、食事を摂らなくなる、呼吸をしなくなる、これらは目的でなく結果である。あ、あと『昏睡しなくなる』とも。そして超能力の獲得とかは目指しておらず、そのような力が目覚めても、さっさとスルーするという。

かといって、なんでもかんでも楽チンに事を進めているわけでもなく、それなりの規定のようなものはある。そりゃそうだろう。たんなる楽チン行動なら、軸のない姿勢でリラックスしてるのと同じ、つまり何もしていない『時間』が経過しているのと同じ。つまりシンタイコウでいう『何もしない』ようすと同じ内容ではない。つまりトゥルータイムにはまったく居てないのである。



つづく





還虚 と言って、仙術の最終形態は、虚空に還ることらしいが、肉体は無くなるというより、消えもするし現れもするらしい。これは仏教っぽい精神性の話でなく、リアルに身体を虚空に消滅させ、また現すこともあるというのだ。そしてそれは死亡でも輪廻転生でもないようです。

ほんとうにそこまで至った人が何人いるかは知らないが、私は、それが完全な絵空事ともおもわない。

肉体や脳のトレーニングがいろいろありますけれども、それは通常の生のプロセスには逆らってはいない。アンチエイジングではあってもアンチホモサピエンスではない(笑)。 ですが、仙術は、生エネルギーの扱い方というかルートが、ちがう。
アンチエイジング的な作用が無いわけではないのですが、なんつーか、時間の扱い方自体が根本的に変わるのだとおもいます。平面的平凡的な地表上の無為自然とはまるでちがう。


私は、シンタイ、シンキの在するところの時間を『トゥルータイム』と呼ぶことにしています。トゥルータイムからすると、肉体の生理機能とか感覚は、どうあがいても遅い。コンマ何秒か遅い。脳機能(思考とか)はさらにコンマ何秒遅い。

遅いところからどうあがいても(つまり肉体鍛錬とか脳トレとかを一生懸命やっても)、それがシンタイシンキ運動になり得るのは至難の業であります。ぜんぶ手遅れなのである(笑)。




つづく



私のチョー浅はかな知識で宇宙構造の話をしてもしょうがないので、リアルなシンタイの話をすすめる。


氣功(周天)では、首の一番上(頭との境)はとても氣を通しずらいところとされています。クンダリニーとかも同じじゃないすかね。ここが詰まって偏差とかクンダリニー症候群とかが発生する確率はけっこう高いとおもいます。

仙術では、ここらへんの氣の通過のさせかたを『牛車のような力強さで』と表現しています。
これはすなわち首のリキミは徹底的に抜かれなければならないことを意味します。

これは肥田式にとっても重要なことです。首のリキミがあるままに、腹とか腰をキメても、どこかしら『意念』によった姿勢づくりになってしまうことは否めません。

肥田式はインチキ武道ではないのだから、強い気持ちとかヤル気とか魂だとかを履き違えた意念で、姿勢をつくってはならないのです。


そうして宇宙の運行にまかせた(リキミのない)姿勢によってあらわされる腹腰は、とても安定しています。脚の力とかに頼った運動はしなくても済みます。

脚は、身体を支えてる風(ふう)なパーツだから、脚のリキミは格別に知覚しづらいものですが、脚の余計な仕事はさっさとやめなければ、肚はいつまでたっても培われません。 それには骨盤底や股関節のリキミはこれまた徹底的に抜かれなければならない。

だがここのリキミを抜ききるのもまた簡単ではありません。『生きるということはここに力が込もっていなければならない』という潜在的な感覚があるからです。


潜在恐怖といえばそれは横隔膜にも宿っていますが、逆にいえば、そういう処が開ければ、脚の奴隷制度もなくなるのです。脚を奴隷のように使っているうちは、己れも絶対に自由にはならない。



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