私の部分屈筋力や体重では、かなり負担のある重さの鋼鉄板を持ち上げてみて、あらためてわかること、それは
1 全身が統一されて出るチカラというのは、全く力は込めないのだということ。チカラは通すのだ。絶対にチカラは関節に溜めない。これをゼロのチカラというのだ。自分を捨て筋肉を捨て丹田も捨ててしまへというのだ。そこには負荷、地球、自己との分離が無い。そこには「作用」があるだけだというのだ!
(肥田春充の調べで)
2 この作用とともにあるなら、長時間の座禅及び立禅、何らかの鍛練などする必要は全くない。
1度の肥田式下腿運動などは、 ハラエ タマエ であり、十数秒の真体功などは、チャー シュー メーン!もとい ヒフミヨイムナヤココノタリ フルヘフルヘ ゆらゆらと ふるべ ってな祝詞と同じことであり、真言ならぬ真体功なんや。祝詞ならぬ祝人や。
(出口オニサブロウの調べで)
めでてえじゃねぇか、おうワレ。
(チバラギの調べで)
アリは、ヒトの爪が大好物なのか巣づくりか何かに役立つスグレモノなのか知らぬが、庭で我輩が切った爪をソッコウで持ち帰る。爪がヒョコヒョコ移動してアッという間に無くなるのだ。
クモが巣を作るサマをボンヤリ見ていることが、飽きない。ただひたすらボンヤリ見る。飽きない。 宇宙の真理だか自然の摂理だかの気づきを得ようなどと企みながら見てはいけない。そんなものは、「結果」気づくことはあっても、そんなつもりで見るのは意地悪ジジイの所業である。お勉強などしたくはないのだ!我輩はな。大体ね、三匹の小ブタ、アリとキリギリス、うさぎとカメ、これら皆、実にくだらなくて面白くない話やないかい。藁の家でバカンスを楽しみ昼寝、最高やないか!縄文人なめんなよ。
「西遊記」っていうんだから、三蔵法師達だってアレ、つまり遊びに行ったんじゃないのかね?天竺で巻物ゲットしようぜ!的な、スタンドバイミー的なことだったんじゃないのかね?
我輩の思考が、(つまらんことでも耐えねばならん)と我輩を言い聞かせて何かをやり続けるとする。 そのあいだ、細胞は死に続ける。そもそも氣は思考や我慢では動きゃあしないのです。がしかし、
つまらんと「思い込んでいる」場合だってありますからね。 怖い怖い。ゾッ。スッ。ステーン。バイミー。