とても気に入って手に入れた靴や服を、大事にするあまりに、身に付けているときはおっかなびっくりな気持ちでいたり、消耗を嫌って、あまり着用しなかったり。そんなこんなで逆に気兼ねなく使用している物のほうが、馴染んで愛着も生まれてきたり。


身体ですとか自我もですね、あるモンは使ったほうがよいのではないでしょか。エゴの満足を追求するということではないです。 「氣」も貯めるより使うほうがよい。「気」はいちいち使わないほうがよい。

それをそのとき使っている主体は、何ですか?誰ですか?ってなことであります。素敵な靴や服に自分が使われるのはナンセンスであります、では自我や身体に主体は使われるものでしょうか? 素敵な自我や身体をつくる作業を「修行」ですとか「人生」とするならば、真体功は、それを否定します。つくるんでなくて使うのさ。